【写真】倒壊したJR東海道線の六甲道駅
(1995年1月18日夕刻撮影、神戸市灘区永手町4丁目)
<撮影>住田功一
地震発生時の駅はどのような状況だったのか?
復旧工事ではどのようなことが行われていたのか?
私たちには想像もできないほどぺちゃんこに崩れ落ちている六甲道駅が、とても印象に残りました。地震発生時に駅ではどのようなことが起きていたのか、駅にいた人はどうなったのかが気になりました。この六甲道駅は、こんなに大きな被害を受けたにも関わらず地震後わずか2か月程で復旧し、東海道本線は運転を再開しています。なぜこんなにも早く復旧できたのか?当時の駅員さんや復旧工事を行った方々にお話を伺ってみました。【横浜緑ヶ丘高校チーム2011】
『日本の大動脈が、今目の前で切れている』
撮影したのはNHKの住田功一さん(35=震災当時)です。
地震発生の日は、遅い正月休みで神戸の実家(灘区の六甲山のふもと)に帰省していました。6時4分ごろに、電話で自分の担当していた『おはよう日本』に報告。もう一回7時台に電話で報告して、市街地にヒッチハイクで向かいました。
地割れや、住宅の倒壊、マンションが傾いているのを見ても、なかなか信じられないのです。どれぐらいのニュースバリューなのか、もう価値判断が振り切れていました。
でも、石屋川あたり(この六甲道駅の東側)で東海道線の高架が落ちているのを見て、ことの重大さが腹におちました。『日本の大動脈が、今、目の前で切れているんだ』と。
この写真を撮影したのは、地震の数日後だったと思います。駅の北側入り口です。あとで駅員さんに聞いたら、幸いコンコースで亡くなった方はいなかったと。みなさん柱の近くにいたりしたのだそうです。
拡大してみると、写真中央の張り紙には、赤い字で『危険につき立ち入り禁止 六甲道駅長』とありますね。
《取材日 2011年8月3日、本人談》
崩れ落ちた線路 お客様を避難誘導
六甲道駅を管轄するJR西日本神戸支社に地震当日の駅の様子を尋ねたところ、郵送で回答が寄せられました。
当時、六甲道駅で勤務していた社員は以下のとおり語っていました。
『その日、私は午前4時30分に起床し、5時から[みどりの窓口]で仕事についていました。
そしてしばらくすると…、ドーン、ドーンという大きな音と、激しい揺れが襲ってきました。一瞬、列車が脱線したのかと思いました。
あまりの激しさと長い振動に地震だと悟り、無意識のうちに逃げ出そうとしましたが、とても立っていられない状態でした。
あたり一面に机や書棚が次々に倒れ、外へ脱出しようにも足場がなく、『ダメかな』と思ったものです。
まだ、薄暗い中をホームに上がると、商店街から猛火と黒煙、線路脇のビルからガラスがバリバリと割り落ちており、あまりのショックで言葉もでませんでした。
N君といっしょにお客様を誘導、ホームの西端からなんとか歩けそうな部分をえらんで、崩れ落ちた線路を避難していただきました。
その後、余震があるたびにあの時の恐怖がよみがえってきて、身震いしたものです。』
また、回答には復旧工事に関する資料も同封されていました。
その資料によると、高架下テナント撤去が始まったのが震災3日後の1月20日で、駅舎の復旧工事は3月10日に始まり、4月1日に運転再開された。
地震で傾いた橋げたを、クレーンで吊り上げたりジャッキで持ち上げたりして水平に修正することによって、通常数か月かかる工事を、2週間で終わらせることができた。
作業員数は最大1日3500人にも及んだ。
4月1日の運転再開時は45km/hの列車徐行を行い、順次70 km/h、90 km/h、120 km/hに速度を上げた。
六甲道駅ではバスの運行がストップしていたため、駅前広場を工事ヤードとして利用することができたので、壊滅状態であった駅部の工事も昼夜作業が可能となり順調に進めることができた。
《取材日 2009年9月 手紙での回答》
【写真】奥村組本社。(大阪市阿倍野区松崎町2。2011年8月撮影)
復旧工事の担当者に聞く
東海道本線の復旧工事を行った株式会社奥村組にお勤めで、当時復旧工事に携わられた3人の方から、当時のことを伺いました。
【進捗写真1】震災2日後の六甲道駅南側ロータリー。コンコースが崩れ落ちている様子がわかる。右奥は窓が割れたメイン六甲Aビル。(神戸市灘区深田町4丁目、1995年1月19日撮影)
【進捗写真2】外装の撤去が始まる。
【進捗写真3】高架橋のジャッキアップ。
【進捗写真4】駅全体の修復。
【進捗写真5】柱を鉄板で補強。
【進捗写真6】載荷走行試験。ホーム上で大阪方向から西を臨む。(1995年3月29日撮影)
盗賊団との戦いがあった
地震発生時には40歳、主に施工計画の策定を担当していた志岐秀信さん。
Q、地震の瞬間は、どこで何をしていましたか。
A、大阪府堺市の自宅マンションで寝ていた。自宅には被害はなかった。この時は、JR天王寺駅でホームの直上に駅ビルを建設する工事に従事していたので、工事途中の鉄骨だけの駅ビルが電車の上に崩れ落ちていないか心配になり、7時には駅の工事現場に自動車で急行した。
Q、倒壊した六甲道駅を初めて見たときに何を思いましたか。
A、何も思わず、ただボー然とした。破壊の状態が土木技術者としての想像・常識を越えるものだったので、『信じられなかった』というのが正直な感想だ。
Q、最初に倒壊した六甲道駅をみたとき、復旧までどのくらいかかると思われましたか。
A、鉄道の目的は、電車を走らせて交通機関としての使命を果たすことだから、まずどうにかして電車が走れるようにして早期復旧を果たさなければと思った。元の高架化は、仮線路を設置して5年以上の工事で1976年に完成したので、被災地の中で瓦礫を片付けて、仮の線路を敷設すれば3か月から4か月で電車が走るようにできる。そうして仮に電車を走らせながら、元の高架鉄道を2年から3年くらいで復興できる。そう考えた。私はそのための工事計画を考え始めたが、しかし、そうして電車が走りだすと、ほかの復旧工事の邪魔になって、神戸全体の復旧・復興が遅れることがわかった。また、いくら瓦礫と化した被災地でも、個人所有の土地に、勝手に瓦礫を片付けて線路を敷設することは許されない。
Q、工事の間どのような仕事を担当していましたか。
A、工事を進めるには、設計図を作り、工程、工法を決めなければならない。この3つを元に施工計画という工事の進め方を決定し、それに従って人員や機材や資材を調達・動員して工事を行う。私は、施工計画を策定して施工部隊に渡すことが仕事だった。
Q、現場では、常に何人くらいの人が働いていましたか。
A、六甲道の鉄道高架は全長2340mで、奥村組は最も激しく壊れた六甲道駅の260m区間を担当したが、この工事現場に技術者と作業員と合わせて常時300人くらい。昼夜2交代の24時間稼働なので、1日600人ぐらいだった。六甲道高架橋全長の復旧工事を8工区で分担しており、全体ではこの4倍くらいの人たちが従事していた。
駅の区間では、高架橋のジャッキアップが完了した後は、高架の柱補強やホームを復旧する土木工事のほかに、駅舎復旧の建築工事が始まり、線路にレールを敷設する工事や線路上に電気の架空線や信号を設置する工事も同時進行するので、同時に1000人以上の技術者や労働者が働いた。
Q、休日は2か月間でどれくらいありましたか。
A、(作業の)休日はなかったが、技術者も労働者も交代で2週間に1日休んだ。
しかし、自分が担当する工事部分が重大局面にあるときなどは、休めなかった。
Q、工事中に余震が起こった時は、何を思いましたか。
A、私は、工事計画を作成する段階で仮設物の危険性をなくすように依頼を受けていたので、作業員がケガしていないか心配したことと、ジャッキアップしようとしている鉄筋コンクリート高架橋の、『震災で生き残った部分』が崩壊して、元も子もなくなってしまうのではないかと不安に考えていたことだった。
Q、工事中の、外部の方たちの様子はどうでしたか。
A、海外の大災害では、災害後の略奪の様子がニュース報道されることがあり、日本では信じられないことのように言われるが、阪神大震災では盗賊団との戦いがあった。ある夜、物音がするので見に行くと、何者かが倒壊した銀行のあたりに忍び込んで何かを物色中だった。声をかけると強盗に早変わりして襲いかかってきたから、その場から逃れ、作業員たちを起こしてスコップを持って立ち向かい、追い払った。このことから、技術者と作業員がチームを作って不寝番をするようにしたが、その後も数回、盗賊団との戦いがあった。
震災の3日後、コンテナハウスの事務所に泊まった時、深夜に妙齢のお嬢さんが切羽詰った顔で戸をたたき、トイレを使わせて欲しいと要請されたが、心を鬼にしてお断りした。
明確な理由があった。トイレタンクの容量はわずかなのに、ひとりの被災者に許せば、次々断りきれなくなる。職務命令で連れてきた労働者のために設置したのに、被災者の使用を許すと、すぐに満タンになり労働者が我慢しなくてはならない。現場で働いている労働者が被災者になる。
3月になると交通機関がある程度復旧したので、観光気分で「被災地見物」に来る人たちが増えた。私は工事現場での外部者対応もしていた。
たとえば、理系だけでなく文系の学者・研究者や学生たちまでもが、押し寄せるようになり、相手をしないと、学問研究目的ということを振りかざして怒るのには閉口した。(学問に名を借りた物見遊山としか思えなかった)
また、カメラマンたちも押し寄せて、危険な工事現場に勝手に立ち入るようになり、工事の邪魔だし危険だと言って追い出すと「何か秘密があるのか、後ろめたいことをやっているのか」と食ってかかるような状態だった。
さらに、着飾ったご婦人がたが、何かのボランティアのついでに「話のタネに震災を見ていかなくっちゃ」的な態度で、団体で工事現場見物に押し寄せたのにも閉口した。
Q、当時の1日の日課を教えてください。
A、私は、JRからの矢継ぎ早の指令を受けて補充設計図を書き、施工計画を策定して施工部隊に渡し、この計画に基づいて資材を発注する仕事が、怒濤のように押し寄せる毎日だったから、私が手を休めると工事が止まるので1時間でも休めなかった。
事務所に泊まり込んで48時間を1日(初日は徹夜して2日目の午後9時頃寝て翌朝8時頃起きる)とする生活だった。
昼間はJRとの打ち合わせ対応などに時間が取られ、少し過大な設計はどうしても深夜に一気に図面を書き上げる必要があり、このようなサイクルになった。
Q、食事はちゃんと三食食べていましたか。どんなものを食べていましたか。
A、被災地の何もないところで仕事をするために「衣食住」を確保しなければならないが、真冬だったが「衣類」で困る事はなかった。
復旧工事に従事する技術者や労働者は、大阪など周辺の関係者だけでは足らないので日本中から動員されていたため住むところが必要なので、比較的被害が少なかった尼崎市にプレハブ宿舎を建設してバスで通勤したり、大阪南港地区にプレハブ宿舎を建設して船で通勤するようにした。(公共交通がないのでバスも船も工事のためのチャーター)
多くの復旧工事関係者がキャンピングカーのようなコンテナハウスを事務所にしていたが、私たちは激甚被災地の六甲道駅前に本格的なプレハブの現場事務所を建設して工事を行い、その1室に2段ベッドを設置して20人くらい(工事を差配する幹部と計画担当の技術者)が寝泊りしていた。(ベッドは隣同士くっつけて、足のほうから出入りする状態)
震災復旧工事は戦争と同じで、補給ができなければ何もできないので、私の会社では神戸地区の各工事現場に対する補給を一括して確保していた。
最初の頃(1月)は大阪から船で、弁当(1回1000食くらい)を輸送していたが、2月になると、神戸で被災が少なかった地域の弁当屋が仕出し配達できるようになった。
六甲道の現場では1食300人分を、朝・昼・晩・夜の4回調達する必要があり、現場で働いている人数を把握して、毎食の必要数を発注して確保しなければならない(現場で重労働している作業員に供給する食料に不足があればいけない)から、弁当調達係の社員を配置していた。
食事の質問をされたが、食べれば当然に排泄も必要で、1000人の食事より1000人の糞尿処理の方が困難だった。仮設事務所に汲み取り式のトイレを設置し、毎日バキュームカーを大阪からピストン運行した。(それでも時々、便槽から糞尿が溢れる状態)
仮設事務所にはシャワーと浴槽を設置し、働く人がいつでも入浴できる状態にしたが、浴槽が小さいのであまり清潔ではなく、冬なのにシャワーの方が好評だった。
飲料水や工事用水は、毎日、給水車2台で大阪からピストン輸送した。
Q、無事六甲道駅が復旧した時は、どんな気持ちになりましたか。
A、試運転では、電車が走るようになって「できたんだ」と達成感を感じたが、検査合格を告げられた時は、不安と疲労感がないまぜになって、喜びより脱力感の方が大きかった。
開通した後に、夕食を食べようと近所の食堂に入って席に座ると、いきなり目の前にビールが並べられた。近隣のマンション住民たちからの差し入れだという。今まで住民とは直接的な心の交流があったわけではなく、どちらかというと見守って応援してくれている感じだったのだが、自分の仕事がこんなに喜ばれていたのかと感激した。
Q、建設関係者として、被災地での様々な被害を見て感じたことは何ですか。
A、地震で壊れない建物や施設を作ることはできないということ。だから、設計するときには、地震で壊れても『致命的な壊れ方をしない』ことや『とにかく人命は助かる』ように考え、壊れた場合は早く復旧できるような構造にすることが大事だと感じた。また、古い住宅には耐震補強をすべきだが、費用負担が大きい場合は、壊れても『人命は助かる』程度の補強でいいから実行すべきだと思う。
Q、震災を経験していない私たちへのアドバイスがあれば教えてください。
A、災害は『自助・共助』を明確に考えて、備えておいてください。また、大災害が発生したら、ひるまずに立ち向かってください。
《取材日 2011年2月 手紙での回答》
毎日工事の進捗を確認している人がいる
地震発生時には40歳、神戸出身で主に復旧計画と発注者との調整を担当した柳原純夫さん。
Q、倒壊した駅を初めて見たときに何を思いましたか。
A、駅構内に人はいたのか? 死者がでたのか?
Q、工事中に余震が起こった時は、何を思いましたか。
A、まず復旧中の構造物の安定性と安全性を最優先に考えた。
Q、工事中は、住民の方々から焼き鳥の差し入れや横断幕での激励があったそうですが、この他にも何かありましたか。
A、工事現場の仮設トイレを使いたいと要望が多数あった。また、近所の居酒屋で毎日工事の進捗を確認している人がいると聞き、開通を望んでいる人が多いことを実感した。
Q、当時の1日の様子を教えてください。
A、朝7時から翌朝3時頃まで働き、復旧計画などの内業と現場確認を行った。
Q、無事六甲道駅が復旧した時は、どんな気持ちになりましたか。
A、とにかく休みたいと思った。また、テレビなどで大々的に報道されるのをみて、少し誇らしかった。
Q、建設関係者として、被災地での様々な被害を見て感じたことは何ですか。
A、技術者としては耐震設計の不備を痛感し、その重要性を再認識した。そのほかとしては、被災市民の秩序ある行動が心に残っている。震災直後は人が大勢いるのに奇妙なほど静寂な時間があった。
Q、震災を経験していない私たちへのアドバイスがあれば教えてください。
A、自分の住んでいる家が地震の時どのようになるかを考えて、もし危ないところがあるのなら何故今まで放置しているのかを考えてみてください。
《取材日 2011年2月 手紙での回答》
『奥村組が六甲道を復旧するんだ』
地震発生時には35歳、神戸出身で施工担当の岩澤茂幸さん。
Q、当日の様子を教えてください。
A、震災当日は、たまたま代休をとって兵庫県加古川の自宅で震災に遭った。普段の2階寝室のタンスは動き、子供部屋のテレビは落ち、食器棚のものは飛び出し飛散。たまたま、家族で1階の和室で川の字で寝ており、まだ小学校低学年の息子と4歳の娘、その二人を抱きかかえる家内はおびえていた。
Q、工事に携わることになった経緯を教えてください。
A、震災発生翌日の1月18日に担当の部長から電話が入り、『なんとしても明日(大阪の)支社に来い。お前は加古川だから(当時携わっていた現場である大阪市内の)今宮には通えない。明日から災害復旧の仕事だ』と。
その翌日の19日、早朝から国道2号線でJR今宮の現場に向かった。夜明け前に家を出て、明石まではなんとか行ったものの、一向に進まない。反対車線からは被災された方の疎開の車。車のガラスにはゴミ袋が張られ、荷物満杯の車の列。その中の疲れきった人々の顔。結局5時過ぎまで頑張ったが、神戸市内には入れなかった。そこで裏六甲の方を回って、なんとか昼前に支社に到着した。昨日までの所属のJR今宮の現場に挨拶だけをすませ、主任の激励をうけた。まだ、神戸がどうなっているのか、TVでしか知らない被災状況のなかで、頑張れるかなと不安を抱きながら、『今からやるんだ』と。
支社では、部長、所長、課長たちと今後の復旧について話し、『奥村組が六甲道を復旧するんだ』『奥村組が、六甲道に一番に入るんだ』『駅前広場は、復旧作業に一番必要な場所だから、必ず確保しろ』との言葉を心に、東淀川警察の通行許可書を手に入れて支社を午後8時に出発。震災前日まで勤務していたJR今宮の現場付近のコンビニで食糧を確保して、自分のワゴン車で一路神戸へ向かった。
Q、現場付近の様子を教えてください。
A、大阪難波のネオン街を後に県境の神崎川を越えると、そこは別世界だった。いつも見ていた国道2号線沿いは明かりがなく車のライトの明かりだけで、がれきの闇の中。運転しながらこの被災状況を見て、『これが尼崎? 神戸?』と目を疑った。
六甲道に近づくにつれ、被災状況はもっとひどくなってきた。家屋は崩れ、ビルは傾き、人影も見えない。車外の光景に胸がどきどきして、どうなっているのか頭の中は混乱状態だった。目的の六甲道北側の駅前広場に到着すると、崩れた駅舎が目の前に広がっていた。『僕に何が出来るのか』『がれきの中に希望の光をさすことが出来るのか』と不安を感じた。
その光景の中、僕の胸の奥からは高まる鼓動とともに、支社を出るときの上司の言葉を思い出した。次第に不安から『今こそ、土木屋の技術と魂の見せどころ』『自分が生まれ、長男の生まれ育ったまち神戸に何かをしよう』と、からだ全体に高まる震えを感じ、土木屋の使命を肌で感じ始めた。
駅前広場に止めたワゴン車の中で夜明けを迎え、朝日の中、復旧用の重機械を迎えた。
Q、工事の間どのような仕事を担当していましたか。
A、重機を迎えた後、現場責任者を務める上司も六甲道入り。とりあえず、駅の被災状況を調べろとの命令が下った。『1人で行動するな。必ず2人で行動しろ』駅舎のトイレや駅務室に人は残っていないかと、被災した駅内部を調べた。そのときまた余震が起き、駅舎が揺れる。このまま僕も埋まってしまうのかなとの不安を抱きながらも、写真を撮りまくった。駅舎の柱は大きく破壊し、落下していた。ホーム上には、床版から剥がされ宙吊りとなったレール。予想していた以上の被害を目の当たりにし、作業員の世話役と驚きを隠せずも『僕らが、奥村組がやるのだ』との勇気が湧いた。
六甲道入りをして数日は、ユニットハウス1つが我々の前線基地。大阪の後方支援部隊から送られてくる資機材は、交通規制や混乱で、時間をかまわず入ってくるため、真夜中でも起きて資機材を受け入れるという日々が数日続いた。
作業員が集まり、いよいよ復旧作業へ。
Q、工事中は、住民の方々と何か交流はありましたか。(じっと様子を見ていた、忙しそうで特に注意を払ってはいなかった、声をかけてくれた…など住民の様子はどうでしたか)
A、
・テナントの商品回収
最初の作業は、高架下テナントの店舗の商品の搬出だった。少しでも早く本格的な復旧作業を始めるためには、崩壊した高架橋のがれき撤去を早く進めなければならなかったが、あの地震で全てを失ったテナントの人々にすれば、わずかに残った商品や現金の回収が心の支えでもあった。我々が、被害を受けていない商品とがれきとを分ける間、事務所の方では、テナントの方と回収の時期を話し合っていた。テナントの方は、少しでも自分の物を早く回収したいとの強い意向があり、作業中の立入禁止の規制を無視して来られる方も多数おられた。しかし、余震が発生するたびに作業員に退避をさせる様子から、危険を背にやっている我々を信用していただき、撤去作業も順調に進んだ。テナントの方の商品を回収できたときの笑顔は我々の励みとなり、感謝の言葉に支えられた。
またある洋装店のご主人からは、危険な中で思った以上の回収が出来た感謝の気持ちとして、シャツを一着いただいた。もしかしたら、着ている作業服があまりにもほこりまみれで哀れに思われたのかもしれないが、そのとき頂いたシャツは今でも大切に着ています。
・薬局での出来事
こんなこともあった。ある夜の出来事ですが、仮眠中、テナントの薬局のご主人に叩き起こされた。『崩れた高架橋の中にある薬局に若者数人で商品を盗みにきている。何とかしてほしい』と。
すぐにヘルメットをかぶり現場へ向かうと、若者数人が袋に大量の薬を持ってテナント自衛組織の見回りの方とにらみ合いをしていた。テナントの方は『これは我々の物だ。泥棒行為だ』と憤慨していた。
僕は、若者に下に降りてくるように言い、話を聞いた。彼らは「自分の仲間が腹痛を起こしている。避難場に行っても薬がもらえないので取りに来た」と話した。僕が『なぜ、薬局の方にちゃんと説明して必要な量だけを譲ってもらわないのか』などと諭すと、彼らは必要な物だけを譲ってもらって帰っていった。その後、回収できるだけの薬を回収し、土嚢袋に詰めて渡すと、薬局のご主人は、『本当にありがとうございました。回収していただく物はこれで十分です。これは、復旧作業をしている皆さんで飲んで頑張ってください』と、土嚢袋に入ったたくさんの栄養ドリンクと滋養強壮剤をくださった。『あと、これから回収される薬はすべて処分してください。頑張って復旧作業をお願いします』と言われ帰っていかれた。
そのとき頂いたたくさんの栄養ドリンクや滋養強壮剤、また処分品となったものは、我々の活力として有効にいただきました。
市民の皆さんが、我々の復旧作業を見守り、我々の努力を感じて応援していただいているのをしみじみと感じた。
・近隣住民からの感謝の垂れ幕
ある朝、六甲道駅南広場の南にあるメイン六甲ビル2階回廊に、『工事の皆さま おケガのないように!!』の垂れ幕が、近隣住民の温かい心で掲げられた。これは、どれだけの励みになったことか。僕自身、その垂れ幕を見たとき、心の奥で熱くなるのを感じ、頑張ってきて良かったと思った。
・ドーナツの差し入れ
それから数日後だったか、奥村組の事務所に可愛らしい女子大生か高校生くらいの女の子が訪れ、『今日、駅の北側のミスタードーナツが再開することが出来ました。六甲道駅の復旧工事に頑張っておられる皆さんで食べてください』と、たくさんのドーナツを持ってこられた。僕は、素直に受け取っていいのか戸惑ったが、ありがたくおいしくいただきました。後方支援部隊から送られてくる弁当で過ごす毎日だったが、久しぶりにおいしいお菓子にありつけ、我々の顔にも笑顔があふれるようになった。
近隣の皆様の温かいお気持ちで、工事は順調に早期開通を目指し突き進んだ。
工事も前例を見ない倒壊した高架橋のジャッキアップ工法による扛上復旧が決定された。早期復旧を目指し、JR、奥村組、奥村組協力業者が一丸と突き進んだのです。
Q、無事六甲道駅が復興した時は、どんな気持ちになりましたか。
A、3月29日感無量の列車走行試験があった。床版から剥がされ宙吊りとなったレールが一本に真っ直ぐ繋がれ、その上を4台の試験走行用の貨物機関車が、地震と工事で発生したコンクリートの粉塵を捲くりたて、ゴーという音を高めながらホームに向かってきた。
ホームの上で見守っている我々の横を、今までの苦労を吹き飛ばし、希望の光をコンクリートの粉塵と爆音とともに通過し、復旧から復興へと運んでいった。
このとき僕は、からだ全体に高まる震えを感じ、高校の時から夢を抱いていた土木屋の使命を肌で感じて、実現出来た喜びで自分自身に感激した。震災直後、この六甲道駅に真夜中に乗り込んでからの心の中の葛藤や苦労話が、今では遠い過去のように思えた。
3日後の4月1日早朝、最後まで開通していなかった六甲道駅プラットホームに一番列車が到着し、JR社長と奥村組所長との固い握手。このときから、本当の復興への道となった。
Q、この工事を担当して、その後の仕事に取り組む気持ちは変わりましたか。
A、僕を支えたものは、社会の期待とそれに応える土木屋の使命感である。まさに、このJR六甲道駅復旧工事はそのものであった。高校生の時から土木に憧れ、大学を卒業して奥村組に入社してからいくつかの工事に携わってきたが、これほど土木屋でありことの誇りと、この工事に携われた喜びを感じ、土木屋としての使命感を感じて仕事をすることが出来、幸せだったと思う。
それから、近隣住民の心温かい応援を感じたのも初めてであり、戸惑いもあったが、やったという気持ちが湧いた。
最後に、1月19日に家を飛び出したまま帰ってこない僕を心配してくれた家族と、『頑張ってくださいね』と声を掛けてくださった近所の方、復旧作業で頑張っている父親を自慢にしていた子供たちがいたからこそ頑張れたと思う。
《取材日 2011年2月 手紙での回答》