報道写真

【写真】激しく燃える民家と乗用車を押す人たち =(1995年1月17日午前7時30分、神戸市東灘区)
(C)共同通信社

チーム写真

せめて車を守ろうとしたのか?

炎が迫る中、車を押している構図が、緊迫感があり強く印象に残りました。
この人たちの家は無事だったのか?ほかの家財はあきらめて車を守ろうとしたのか?知りたいことがいくつも出てきました。東灘区は広いので場所の特定から始めることにしました。【つくば開成高校京都校チーム】

カメラマン

現場は、御影のお寺

写真の版権をもつ共同通信社に問い合わせると、撮影したのは現在、同社編集局ニュースセンター整理部委員の酒井充さん(51=取材時)と判明。電話でお話を聞きました。

東灘区御影本町に住んでいたから、自宅の周りが“現場“で、撮りながら歩いて回った。自分も被災者の一人。この写真を撮ったのは午前7時〜8時ぐらい。ベランダから見渡すと火がポツポツと上がっていた。
煙が一番大きいところを目指して歩いた。それがこの現場。
阪神御影駅から神戸方面に数100m行ったお寺で、町は、とにかくとても静かだった。 (車を押している人たちを見て)何をしているのかなと思った。(後ろに火が迫っていて)それどころじゃないはずないのに。
あの時は、必死であちこち撮っていて、撮ったらすぐ違う場所に行ったから、(写っている人に)声はかけていない。車のその後も分からない。

写真を社に届けたかったが、電車は止まっているし、渋滞していた。
ヒッチハイクで電送機のある支局まで行った。着いたけど、社内もガタガタ、ぐしゃぐしゃで写真も送れないし、誰もいなかった。皆、取材に出ていた。トランシーバーが置いてあったのでそれを持って出た。上空にヘリが来たときに交信できると思った。(ヘリと)大阪支社との交信に割り込んだ。ヘリポートがあったポートアイランドから自転車で取りに来てもらい、(フィルムを)渡すことができた。

後で何かの本に取り上げられていて知ったが、この車はラリーカーという価値のある有名な車だと知った。だから、懸命に運んでいたんじゃないのかと思う。有名な車だったから、話題になった。この写真は週刊誌にも載った。海外の新聞にも取り上げられた。 誤解を生むかもしれないが、(後ろの火と人々の感じが)写真としてはまとまりがいいと思った。でも被災した人のことを考えると…ね。転勤で(神戸には)4月までしかいなかった。(東京に)戻ってからは神戸の人とは会ってないし、連絡を取ってない。 この写真が、関西写真記者協会賞をとり、(1995年の)年末に授賞式のため大阪に出張した。そのとき神戸にも行ってみようと思ったが、“軽い気持ちで行けない…”と思い、西宮まで行ったところで戻ってきた。定年する前…それか定年後に行こうかな…。
《取材日 2009年1月21日、5月17日に横浜緑ヶ丘高校が面接取材》

取材風景

Oさんの車ではないか

酒井カメラマンの証言をもとに地図で調べると、現場は理性院(りしょういん、東灘区御影石町)の境内とわかりました。理性院の住職、西蔵全祐さんを訪ねました。

Q、写っている人の名前などは分かりますか?
A、交流がないので分からない。でも、この女性(写真に写っている一人の女の人)は朝日荘に住んでいたOさんではないかなぁ。車は、Oさんの車だと思う。

Q、写真右の倒壊炎上するアパートが…?
A、朝日荘です。左は境内で、後ろで燃えているのは、私の車です。

Q、その時、住職さんはどうしていたのですか?
A、家族5人は、大丈夫だった。避難所の御影小学校にまず避難した。(翌18日に)ガス漏れをしていると放送で流れていた(避難勧告が出された)から、2号線の山側の御影北小学校に移り、19日朝まで避難していた。

Q、ご自分の家も、焼けてしまったんですね A、この時は、家族と逃げるのが精いっぱいだった。屋根の軒が燃えたら、あっという間に燃え広がった。1992年に落慶法要をしたばかりだったのに…。地震があってすぐに燃えて、夕方くらいまで燃えていた。19日の昼から20日、21日の夕方まで、火災で焼死された人の遺骨を掘り起こしていた。だいたい、26人掘り起こして、家族にお渡しした。

Q、この写真に写っている人たちは家族なのか?
A、家族ではないと思う。Oさんは、結婚を予定していたが震災でできなかったので、ボランティア団体が無料で結婚式をする活動していたので、ホームページなどに記録が載っているかもしれない。
《取材日 2009年1月23日》

取材した人

手がかりは尼崎に

Oさんを知る人はいないか、朝日荘の関係者は周辺に住んでいないか、近隣で震災前から営業するお店で聞いたりして取材しましたが、だめでした。朝日荘のあとに建っているマンションの所有者に連絡をとろうと法務局で登記を調べたりもしましたが、手がかりは得られませんでした。そんななか、Oさんは、現在Tさんと結婚して尼崎に住んでいらっしゃることがわかりました。尼崎の電話帳の「T」という名字の方を一軒一軒しらべて、ようやく、連絡をとることができました。
《取材日 2009年3月》

取材風景

Oさんが倒壊アパートから脱出する間に車は…

Tさん(旧姓Oさん)は、生まれてからずっと東灘区御影で暮らしていました。震災当時は26歳、歯科助手として働いていて、お父さんと二人で朝日荘2階の道路に面した角の部屋に住んでいました。あの日は、今のご主人が、結婚の準備のため朝日荘に泊まっていました。

地震発生で、Tさんは揺れで目が覚めましたが、周りは暗く、瓦礫の下敷きで身動きがとれず、何がなんだか分からない状態でした。
一方、ご主人は瓦礫の下から、スッと抜け出せたので、埋まっているTさんを助けようと試みます。しかし、引っ張ってもTさんの体は抜けない。そのうち朝日荘の奥から火の手が上がり、このままでは焼け死ぬと思ったご主人は、火事場の馬鹿力で布団ごとTさんの体を引っ張り出しました。助け出されたTさんは、ただただ「うそぉー」と、現実味のない惨状に驚くばかりでした。
目の前の阪神石屋川駅の高架の上に停まっていた電車が傾いていた、といいます。冷静だったご主人は、近所の人の救出に奔走しました。

火が回ってきたので、理性院の境内に停めていた車も諦め、着の身着のまま避難をしたといいます。部屋の物や、思い出の品、写真も全て焼けてしまいました。
Tさんは打撲や擦り傷、顔がうっ血して腫れる以外、目立った外傷はありませんでした。しかし震災後の夏、震災のストレスで一時体調を崩してしまいました。
この車は、「フォード シエラ サファイア コスワース」で、今も大切に保管しているそうです。
《取材日 2009年4月5日》


取材した人

【情報をお寄せください】


Tさんへのインタビューで、重大な事実がわかりました。
「車は知らない間に、理性院の境内から阪神電車わきの道路まで運ばれていた」という事実です。
 この写真は、共同通信が全国の地方紙に配信し、震災翌日の神戸新聞(1995年1月18日付)朝刊などに掲載されました。
Tさんによると、写真まん中の赤いヘルメットを被った男性は、名前は知らないけれど、いつも近所ですれ違ったりしてみかける人でした。人を探していた時に、避難所付近で、この男性と出会いました。ヘルメットに見覚えがあったので、声をかけて話しました。
「この車は高価だから避難させよう」と、近くにいた人に呼びかけて運んだのだと、話していました。 車のフロントガラスを割り(写真でも確認できる)、サイドブレーキを上げて、人力で車を押し運んでくれたと言っていました。
車を運んだほかの人たちとTさんは面識がないとのことでした。
この車は関西には一台しかなく、車好きの人から見れば、貴重な車だと分かるのだといいます。 私たちは、車を押したみなさんに、ぜひ、その時の状況や心境を伺いたいと思っています。
私たちの取材は、まだ続きます。皆さんからの情報をsinsai@kobe-u.comまでお寄せください。