報道写真

【写真】およそ650メートルにわたって倒壊した阪神高速神戸線=1995年1月17日 午前9時すぎ芦屋市平田町で
(C)神戸大学ニュースネット委員会

チーム写真

走っていた車はどうなったのか

高速道路が崩れるなんて、驚きました。高架の上を走っていた車や、下を走っていた車はどうなったのでしょうか。【静岡県森中学校チーム】

カメラマン
撮影した住田さん
(photo/藤原靖史)

信じられない光景

撮影したのは、神戸大学ニュースネット委員会OBの住田功一さんです。放送局のアナウンサーをしている住田さんは、取材の合間に私物のカメラで記録を残しました。この写真は、地震当日の朝撮影されました。この写真は、広く社会に公開するために大学新聞に版権を託している写真の一枚です。
ラジオで「阪神高速倒壊」の情報を聞いて、スタジオの応援ではなく、現場に行こうと思ったという住田さん。ヒッチハイクで、灘区の実家からこの現場に着きました。目の前の光景が信じられなかったといいます。状況を東京のニュースセンターに伝えようとしましたが、電話がなかなか見つからず、苦労しました。午前10時前にラジオに、現場近くからリポートを入れました。
《取材日 2009年4月29日 現場で》

取材風景

尊い教訓を資料館に

阪神高速道路株式会社に取材に伺いました。鎌倉安博さん、西出浩明さん。木下義康さん(阪神高速技術株式会社出向中)に答えていただきました。

Q:どのくらいが壊れてしまったかのですか。
A:神戸線で、倒れたところ1か所、落橋したところ5か所、ひびは、沢山ありました。

Q:死傷者は?
A:阪神高速の道路上や高架下で16人の方が亡くなり、 79人の方がけがをされました。当社では、亡くなられた16人の方をはじめとした震災犠牲者を慰霊するために、慰霊碑を建てました。

Q:直すのにかかったお金と働いていた人の人数は? 
A:約3000億円かかり、そのうちの5分の4に国費を投入してもらいました。また、地震が来ても倒れない様にするための工事の3分の2にも国費が投入されています。のべ約250万人が働いていました。

Q:残がいは、どうしたのですか?
A:コンクリートは、細かくして埋立地に使い、鉄は、再利用されました。また、残骸の一部は倉庫に資料として残しています。震災の教訓として、資料館を開設する準備を進めています。(※2010年1月に東灘区深江浜町の震災資料保管庫をリニューアルし公開しています。)
《取材日 2009年4月15日》

取材した人

車をつり下ろして返還

阪神高速道路 鎌倉安博さんのお話

地震が起きたあと、高速道路の上を走っていた人たちは、車を置いて非常階段を使って避難したため、高速道路の上に多くの車が残されました。高架を作りなおすために、その車を、持ち主に返すことになり、傷をつけないように布を使って車をクレーンで持ち上げました。鍵をつけたままにしていた車はよかったけれど、鍵の残されていないない車は、持ち上げやすいように向きを変えることができず、降ろすのに大変苦労しました。
《取材日 2009年4月15日》