報道写真

【写真】庭の木には救出を訴える張り紙が…
芦屋市津知町(1995年1月17日午前11時)
(C) 神戸新聞社

チーム写真

この女性は助かったの?

私たち、つくば開成高校京都校のチームは、総合学習で『語り継ぎたい。命の尊さ』(一橋出版)の本を読みました。
そのなかで震災当時の記録写真で気になる写真がいくつもありました。
この写真はその一枚です。 「女性一人 家屋の下にいます」という手書きの張り紙に、なんともいえないショックを受けました。
なぜ、助けられずにそのままになったのか。
その女性の命は助かったのか。
まず、この写真を撮影したカメラマンに話を聞こうと、神戸新聞社の写真部に電話で聞いてみることにしました。

カメラマン

徒歩で本社に向かう途中、撮影した一枚

撮影したのは、内田香織さん(旧姓・小藤、現在は神戸新聞を退職)とわかりました。芦屋でお会いして、お話を聞きました。
入社一年目だった小藤カメラマンは、震災の日、大阪南部の友人の家に泊まっていて、とりあえずフイルムを買い込み三宮の本社に向かいました。でも近鉄電車は止まっていて、友人の車で神戸に向かいました。途中、渋滞に巻き込まれて進まなくなったので、車を降りて歩き始めました。道すがら目についた光景を写しました。その中で撮ったのがこの写真です。現場にさしかかったときには、すでに紙が張られていました。近所の人から、「おばちゃんがまだ出てきてない」と聞かされました。
《取材日 2009年1月23日》

取材風景

区画整理されて、現場がわからない

写真説明にある芦屋市津知町を内田さんと一緒に歩きましたが、すっかり区画整理されていて、どこだったかわかりませんでした。
そこで当時の町の自治会長・杉本貞夫さんに会ってインタビューしました。すると、「これは津知町じゃなくて、川西町の桜通りかもしれん」といいます。行ってみると…。
「この紙を書いたのは僕や」という男性に出会いました。
《取材日 2009年1月23日》

取材した人

「この紙を書いたのは僕や」

その男性は貞さんの兄、杉本茂さん(86)です。「息子宅の隣の家から『助けてーっ』と声がして、息子と二人で救助にあたりました」その家は木造の二階建てで、着物の着付け教室をしていた母親(70歳ぐらい)と娘さん(40歳ぐらい)の二人暮しでした。一階がぐしゃっと潰れており、二階も潰れていた。二階の手すりは残っていました。
 およそ30分かけて屋根のかわらをどけ、二階で寝ていた娘さんを救出。一階に寝ていたお母さんの方も助けようとしたが、人の力ではどうしようもできず断念。救助を自衛隊に任せることにしました。その際に目印になるようにと、張り紙をしたというのです。「張り紙をは張ったのは自分。紙、ペンを調達しこの下に人がいます、と紙を張り出した」、「僕の記憶では、壊れた家の材木を立てて、そこに自宅にあったコピー用紙に文字を書いたものを張ったと思う」と証言してくださいました。
《取材日 2009年1月23日》

取材風景

今も残る桜の木

杉本茂さんによると、あとで自衛隊が来て、お母さんは運び出されましたが、高齢で瓦礫の下敷きになったために、助からなかったそうです。 いまも芦屋市川西町には、桜の並木が残っています。
《取材日 2009年1月23日》

私たちは、助かった娘さんに会いたくて、母娘に家を貸していた、Hさんに話を聞きました。「娘さんは、お初天神の近くでおでん屋を経営していた」と聞き、取材を始めました。 その店があった梅田新道近くのビルを訪ねてみると、娘さんの消息を知る人に出会いました。

取材した人

母はほぼ即死状態だった

娘さんのお名前は吉田早代(さよ)さん(61)。大阪にお住まいであることがわかりました。「会うことは辛いので、電話取材なら」と応じてくださいました。

「あの、本当に10秒ほどだったんですよね、ガタガタという音で覚めて、あとドンというので2階から1階まで家が潰れて。」
大きな揺れは一瞬で家屋を破壊したので、2階が1階に落ちていることすら気がつかなかった。 「ふっと気がついて周りを見ると、同じ目線に人が歩いていると。それでやっと、あっ下に落ちたんだな、と分かるぐらいだったんですよね」。「『助けてください。だれか助けてください』と言っていてように思います」。

吉田さんは、ベッドと天井に、丁度サンドウィッチのように挟まれました。 いつもは仰向けで寝る吉田さんですが、起きる時には横を向いて、さらにうつぶせになって起きます。地震発生時、たまたま、うつ伏せになった状態でした。天井の土壁が落ちてきても顔が覆われずにすんだのです。もし、仰向けで寝ていたままだったら、呼吸ができず死んでいたかもしれないと話してくださいました。しかし、母親の中野政枝さん(当時74)は、吉田さんの真下の1階に寝ており、ほぼ即死状態だったといいます。
「ベッドと土壁に挟まったままじっとしてたら、圧迫死になってたと思うんですよ。ただ、なんとなくこのままじゃ駄目だなと思ったから、じわじわ横に這うみたいにしていって。丁度ベッドの横に私の体一つ分ぐらいの空間があったんで、そこに滑り落ちることができたんですね。そこで、お隣の方がしばらくしてから、うちは母と私が住んでいるのを知っておられたんで、助けに来て下さったんですね。それで私は助かったんです」。
最初は、杉本さん親子らに助け出され、近くの野球場のベンチに運ばれます。しかし、このままでは寒いのでもっと良い場所へと、他の男性が、腰などを骨折して動けない吉田さんを、幼稚園まで抱えて運んでくれました。その後、何時間かあとに救急車が来て、芦屋病院に運ばれました。

「うちは幸いなことに、着付けの先生方やお友達とか、もちろん私のきょうだいとかね、いろんな人が絶えずサポートしてくれたんで。いろんな方に助けていただいた…」 吉田さんは怪我で身動きができず、ずっとベッドの中だったため、地震の悲惨な状況などは分からなかったのだそうです。
病院は山手の方だったので、震災で電車も動いてなかったので、お見舞いの人は歩いて吉田さんに会いに来ました。
「お水がないだろう、何がないだろう、というので、みんな届けて下さったりでね、良くしていただきました。本当に。」
病院でも、吉田さんは重症だったのでベッドがあったが、廊下で寝ている人もいたといいます。
《取材日 2009年3月26日》