報道写真

【写真】避難所の壁には無事を知らせるたくさんの張り紙=1995年1月19日午後、長田区の蓮池小学校で
(C)共同通信社

チーム写真

なぜ「紙」に頼らざるを得なかったの

フェンスいっぱいの張り紙。安否を気遣うものが多いようです。でも、ネットや携帯は使えなかったのでしょうか。新聞や放送は役に立たなかったのでしょうか。 【横浜緑ヶ丘高校チーム】

カメラマン

撮影者は不詳

共同通信社に確認してもらったのですが、撮影者の記録がないというのです。撮影者不詳の写真でした。
《取材日 2009年1月21日 つくば開成高校が電話取材》

取材風景

校内には1700人あまりの避難者が

夏休みを利用して、神戸の蓮池小学校を訪ねました。チームのメンバーの母親が神戸出身で、校区内に住む友人ルートで声をかけてくれて、3人の女性が被災後の暮らしを話してくださいました。小学校の教頭先生は、学校の記録を教えてくださいました。

●地震発生のあと、どんな様子でした?

前川義弘さん(蓮池小学校・現教頭):学校の記録によると、生徒が5名、保護者が6名亡くなりました。1月31日の登校再開時、236名が登校。授業再開は2月13日でした。当時527名の児童数だった学校に、1700人あまりの避難者が暮らしました。仮設住宅ができたりして、(避難者が)0人になったのは9月3日でした。

飯田次子さん(76):大きな電子レンジがお腹にパーンッと飛んできて目が覚めて。瓦が部屋の中に入ってきた。竹の入った壁土が倒れてきて顔がどろどろで、口をゆすぎたかったが冷蔵庫が倒れて水がない。口に(土が)入っているのは、たまらなく嫌。隣の人に缶ジュースをもらった。かろうじてそれで口をゆすいだ。そのあと蓮池小に避難した。

平野利枝さん(44):0歳の子どもに馬乗りになって、布団かぶって。エレクトーンと大きなたんすがあって、(それが互いに支え合って)ちょうど三角形のところに頭があって助かった。主人が来るまでがすごく長く感じた。家はぺしゃんこじゃないけど、全壊でした。蓮池小に避難した。

山口真弓さん(48):100kg以上のたんすの下敷きになっていた。痛いとかそういう感覚は全然なくて、この場をどうしよう、また余震がくるかもしれないという心配、不安だった。 ジョイプラザ(若松町のマンション)の23階に住んでいた。(玄関の)たたきの下が見えた。隣の家は玄関のドアが開かず、ベランダを横伝いに出た。死ぬかと思った。

●町は大火になりましたね。

飯田さん:普通だったら「あ、火事やー!すぐ消せー!」となるけど、(災害当時は)ただ呆然と…何もできない。「もうすぐここまで来るよね」、「ああ、焼けたね…」といった感じ。新湊川はホースだらけ。
「飯田さん家燃えてますよ」「ああ、焼けたー?」って、焼けてるのが普通、感覚が”焼けてあたりまえ”だった。

●避難所の様子は?

飯田さん:放送が使えるようになると24時間体制で「誰誰さんいらっしゃいますか」。寝てられない。毎日呼んでいた。ボランティアの人がいっぱいいた。いろんなことをしてくれた。(被災者を)和ませるために、ピアノ弾いたりギター弾いたり、旅行に連れて行ってくれたり。日本テレビが取材に来て、「何に困ってますか?」と聞かれたので、「あったかいうどんが食べたいんです、あったかいお風呂に入りたいんです」と答えました。

平野さん: (避難所では) 子どもが泣いたり、動き回ったりして、ご迷惑をかけました。でも(周りの人は)「あの子がいるから笑える」と。ありがたかった。嬉しかったのは、(子どもがいて)避難物資を取りに行けなくてどうしようかなと思ってたら、「牛乳飲む?」と隣のおばさんが。人の好意がすごく嬉しかった。

飯田さん:卒業式が3月24日に行われた。(避難者は)グラウンドにテントを張って移動した。卒業式にも参加した。亡くなった人の遺影を持って参加する人がいて、涙が出てきた。4月9日に(仮設住宅の)3回目の抽選があって、須磨区の名谷に移った。

飯田さん:グラウンドに着るものが届いた。置く場所がなくて校庭は着るものだらけになった。毎日の様に着る物がふえていく。皆この際(不用品を)整理していた様だった。

平野さん:(救援物資のおにぎりは)かたくて…でもそれしか食べるものがない。おばあちゃんは食べられない。汁物やあったかいものが嬉しかった。

平野さん:最初はラップのおにぎりだったのがパックのおにぎりになって、お弁当になった。嬉しかった。

飯田さん:震災当日の朝、夜があけてしばらくすると、講堂にいる手の空いている人が集められ、ビニールの手袋をわたされた。便器の中につまれた便をつかんで大きな袋に入れかえる作業だ。それが終わってプールより水をリレーで運び出し、1つ1つトイレを洗ってバケツ1つずつおいて、それからは自分の排便は必ず流す事にきめられ、水道が出る様になるまでの数日間つづけられた。この時ほど、水の大切さを感じた事はない。電気もガスも出ない人間って、水がどれ程大切か思いしらされた。

●張り紙は役に立ちましたか?

飯田さん:これ(張り紙)は本当に電話が通じない中で唯一の手段だった。それ(張り紙)しか連絡方法がない。ここに掲げてたおかげで大阪の親戚が、(私が)ここにいると分かって、いろいろなものを持ってきてくれた。水とか。

夏学校の運動場には、今も当時のままのフェンスがあります。実は共同通信だけでなく、多くの新聞社が、1月19日に蓮池小学校の“張り紙”を撮影しています。この日は、当時の村山富市首相が神戸を視察し、蓮池小学校にもやってきました。メディアがたくさん来校した折に、各社が撮影したのではないかと推察できます。

《取材日 2009年8月19日》

取材した人

張り紙は校内の呼び出しシステムだった

当時、神戸市職員で長田区役所勤務だった清水誠一さん(64)は、蓮池小学校避難所担当でした。蓮池小の場合、張り紙は“システム”に則って掲示された、と証言してくださいました。

① 校庭に長机を置き、安否確認に来校された方に「たずね人のメモ」に氏名・電話番号を記入してもらう。電話による安否確認があった場合も同様に記入。
② 校長・教頭がマイク放送をする。
③ 見つからない場合、張り紙をする

実際にはこうした手続きをせずに張り紙をする人もいたといいます。
後日ある新聞記者が、「(張り紙のおかげで)ほとんどの人が連絡できた」と言っていたのを聞いたそうです。
電話が通じるようになってから張り紙を外し、当時の教頭と「貴重な資料になるでしょう」とダンボールに収め保管したものの、6月頃にダンボールを取りに行ったら、捨てられたのかなくなっていたといいます。
「もし残っていれば、個人情報の壁もあるが、三回程転居している被災者の追跡調査ができた」「150万都市での大災害で、街の復興にどれだけ時間がかかるかを、時系列的に明らかにできたはず」と、清水さんは残念がっています。
《取材日 2009年9月 FAXで取材》