報道写真

【写真】曲がった線路。阪神電鉄神戸本線=1995年1月20日
神戸市東灘区で
(C)UNN関西学生報道連盟

チーム写真

どんな作業をしようとしているのか

地震発生から3日。この間、線路がまがったまま、本格的な復旧作業が行われなかったことがわかります。よく見ると保線係と思われる人たちがいます。なすすべがないのでしょうか。鉄道マンたちは、この甚大な被害を前にどんな心境だったのでしょうか。【神戸大学発達科学部チーム】

カメラマン

現場は「津知道踏切」

撮影したのは、白石辰士さん(現在印刷会社勤務)。当時、立命館大学の1年生で、学内新聞『NEWS立命』のカメラマン兼記者でした。同紙はUNN関西学生報道連盟にも加盟していて、連盟の先輩の依頼もあり現地に取材に向かいました。現地を歩きながら、お話を聞きました。現場は、東灘区深江北町1丁目の「津知道踏切」とわかりました。

友人2人とともに、神戸に向かいました。京都の下宿から阪急電車で、西宮北口駅まできて、そこから神戸へ、国道43号線の浜側を2時間程歩きました。ちょうど、(神戸市に入ったあたりで)陸橋を渡って43号線の山側に移動して、その後、国道2号線に出て帰ろうと思い少し東に戻り、そのまま阪神本線の線路を渡りました。
 (芦屋市との境に近い津知道踏切にさしかかると…)そう、ここから東向きに撮りました。踏切の上からです。線路には入っていません。
レールがグニャグニャになっているのを初めて見ました。硬い鉄だと思っていたのに…。(写真中の作業服を着ている人は)保線の方だと思いました。(離れていたので)話を聞いた訳ではないけど、途方に暮れているのではないかと思いました。

バスや電車が止まっていたので、歩くのがしんどかった。お腹がすいていたけど、店が全部しまっていました。

(高速道路が倒れているのを)見た瞬間に我が目を疑いました。中の鉄筋がぐしゃぐしゃになっていました。高速道路が落ちるなんてありえないと思っていました。
 帰りはバス、もしくはタクシーのつもりでしたが、バスもタクシーもなにもありませんでした。
 行きと同じく帰りも、阪急の西宮北口駅までは歩き、そこから京都へと帰りました。
 その時は足がくたくたで、「もう帰りたい」と思った。 まわりには、荷物を背負って歩いている人がいました。
 徒歩の時間は2時間以上。さっさと歩ける状況ではなく、地割れなどもありました。
 神戸方面にこれ以上進まなかったのは「これ以上いったら帰れなくなる」と思ったからです。

大学内では、壁貼りの特報(新聞)などで、大学生もたくさん亡くなっている、ということや、FM802でボランティアなどの呼びかけをしていることなどを報じました。その内容は、共同通信が転電して、全国の新聞に掲載されました。
《取材日 2009年4月29日 現場で》

取材風景

古いレールで応急復旧しようとしているところ

手掛かりをつかもうと、阪神電鉄の都市交通事業本部工務部に取材に伺いました。 当事、震災工事に関わっておられた、現東灘工事事務所長の松井順一さん(51)、現技術課の鳥飼大さん(37)、現保線課の飴井克征さん(40)らに対応していただきました。鳥飼さんは、「写真に写っている黒っぽいジャンパー姿は自分だと思う」と話し、当事者にお話を伺うことができました。

鳥飼:当時、西宮の社員寮に住んでいて、地震で飛び起きると寮のガラスも割れていました。外へ出ると、周囲のビルや変電所も崩れていました。大変なことだと思って西宮の保線事務所に出社しました。とりあえず、現状把握しなくてはと、線路の上を西宮から神戸まで歩いていきました。西に向かって歩いていくと、阪神電車の線路の南側に大きな黒板のようなものが見えました。それは、阪神高速でした。西に行けば行く程、惨状がひどくなっていました。御影をすぎて、岩屋駅まで行きました。そこから先はトンネルになっていて、構造物の状況も不明であったため、一旦ここで引き返しました。

飴井:私は、大阪のマンションに住んでいました。JRや阪急が止まってるという情報はわかっていましたが、当社阪神電車が止まってるかどうかはわかりませんでした。最初にテレビで見たのが、御影付近で電車が傾いている状況でした。これは、とんでもないことになったと思いました。当時は鳥飼と同じ勤務先(西宮)で、そこまで行く道を考えましたが、地下鉄も動いてなくて、バスに乗りました。でも渋滞で全く動かなくて…。仕方がないからバスをおりて歩いていきました。


松井:次の日の早朝から被害の状況を安全確認するため、担当者間で区間を分担しました。まずは、状況把握、安全確認をしないと復旧計画の策定も、運行もできないので…。


鳥飼:作業中にも余震がありました。確か、1月26日の開通の前日の夜に、地震があったと思います。結構大きな余震で震度4でした。

取材風景
神戸・大阪間に路線を持つ、阪神、阪急、JRの3社は復旧を急いだ。

飴井:(東灘区の青木駅まで再開したのが)1月26日です。地震発生から9日後です。神戸と初めてつながりました。お客様が、たくさん乗ってこられました。


鳥飼:この写真は、地震で曲がったレールを直すための準備をしているところですね。曲がったレールを切って新しいレールをそこに入れるわけです。(曲がっているレールは)実は新しいレールだったんです。これ(横にあるレール)は、そこに元々あったレールで、取り換えたばっかりだったんです。このレールで応急復旧しようと準備してたんです。(応急復旧後は、再度、新レールに入れ換えました)

鳥飼:私は芦屋駅周辺を担当していた一員でした。甲子園までの開通の次の目標は青木駅までの開通でした。

飴井:ここの盛土の付近では擁壁が被災している箇所がありました。この(写真の)手前ですね。

鳥飼:香櫨園駅付近では、レールが折れていました。考えられないような状態でした。

鳥飼:復旧するための資材は,主に貨車で運びました。普通なら、トラックで運べるものも多いのですが,国道43号も2号線も全く動かなかった時で、資材の運搬がとっても大変だったという記憶があります。

鳥飼:当日は排気ガスの臭いがすごかった。それと、行きに通れた道が、帰りに通れなかったり…。そこら中で家族の名前を呼んでる人がいました…。


取材風景
[阪神電鉄の被害] 鉄道の被害でもっともひどかったのは西灘−御影間の3.1㎞で、陸橋が8か所で落下した。また、営業中の2列車が脱線したほか、神戸の地下線内で2列車が大きく揺れ、あわせて28人の乗客が骨折などの負傷をした。(中略)石屋川車庫高架橋は全般にわたって崩壊・損傷し、教習所も全壊した。また、プラットホームが、新在家や石屋川など10駅で陥没し、レンガ造りのレトロな外観で親しまれた西宮変電所も全壊した。そのほか、車両基地、電機設備などの被害も甚大で、車両の全・半壊は126両にも及んだ。(「阪神電気鉄道百年史」より)


[鉄道復旧のおもな歩み]
1月17日(火)地震発生 全線不通
18日(水)阪神本線 梅田駅〜甲子園駅 運転再開
        阪神西大阪線 全線運転再開
23日(月)甲子園駅〜三宮駅間で代替バス運行開始
26日(木)本線 甲子園駅〜青木駅 運転再開
        阪神武庫川線 全線運転再開
2月 1日(水)本線 三宮駅〜高速神戸駅 運転再開
11日(祝)本線 青木駅〜御影駅 運転再開
20日(月)本線 岩屋駅〜三宮駅 運転再開
3月 1日(水)本線 西灘駅〜岩屋駅 運転再開
4月 1日(土)JR全通
6月12日(木)阪急全通
6月26日(月)阪神全通

《取材日 2009年5月26日、9月30日》