報道写真

【写真】遺体を前に遺族は泣き崩れ、手をあわせる=1995年1月20日
東灘区魚崎北町で
(C)読売新聞社

チーム写真

どのような状況だったのでしょうか

ご遺族の悲しむ様子が生々しく、衝撃を受けました。どのようないきさつでこの写真は撮られたのか。ここで何が起きたのかを調べようと、私たちは思いました。【関西学生報道連盟チーム】

カメラマン

心を鬼にして撮った

読売新聞大阪本社写真部に問い合わせ、調べ学習の趣旨を説明し、カメラマンの方を探してもらいました。撮影したのは、現在は東京本社写真部に所属する秋山哲也さん(50)でした。東京に出向いて、インタビューしました。

 秋山さんは取材中たまたま「母がまだ埋まっています。救助隊を探していただけますか?」と女性から声をかけられました。おそらく妻・英美子さんではないかといいます。そして走って、「生存者がいそうな現場がある」と救助隊を探してきました。救助されたのですが、残念ながらすでに亡くなっていました。
「撮るときは心を鬼にして撮った。紙面に使えないかもしれないが、こういう写真を残していくことも必要だと思った」。人垣の間から秋山さんはシャッターを切りました。近所の人から怒鳴られ、すぐに撮影をやめたといいます。
 後日避難所で声をかけてきたと思われる女性からは、「先日はありがとうございました」と言われたと記憶しています。
《取材日 2009年5月2日》

取材風景

魚崎北町で聞いて回る

私たちは写っている人につながる手掛かりを得たかったのですが、秋山カメラマンに聞いても写真を撮った場所は、東灘区魚崎北町としかわからないということでした。 グラフ雑誌の写真を持って、魚崎北町を訪ねて、とにかく近所の方に聞いて回りました。すると、何人かに伺ううち、偶然にも「このご家族を知っている」という方に出会ったのです。写っていたのは、石原保生さんご一家でした。
《取材日 2009年5月24日》

取材した人

手を握り返した祖母

あの朝、家にいたのは、二階に石原保生さん、妻の英美子さん、息子の賢一さん、長女の由紀子さん、一階に保生さんのお母さんの石原まちさんがいました。次女の美雪さんは海外におり震災当日に日本に帰国したのです。
一階部分は築70年から80年くらい。後年、二階部分を建て増した家でした。二階部分が一階の上に乗っかったような形で崩れたのではないか、ということです。
一階の玄関入ってすぐの場所で寝ていたまちさんが、亡くなりました。当時93歳、もうすぐ次の誕生日を迎えるところでした。
由紀子さんが崩れたがれきの中に手を入れると、偶然まちさんの手を探り当てました。握ると握り返してくれたのです。しかし、がれきに埋もれて、どうしても助け出すことができませんでした。
その後、自衛隊に生存の確認をしてもらったのですが、残念ながら既に亡くなっていたのです。「今は生存者の救助が先なので、後日必ず来ますから」と言われ3日後に遺体を搬出してもらいました。

自衛隊によってまちさんが運び出されたのは、「3日目か4日目だったと思う」と保生さんはいいます。
「そうやね。この歩道のとこにしばらく運ぶとこがなくて置いてたけど…。かわいそうに」(保生さん)。

 だれかに、まちさんの救出を頼んだかもしれないけれど、それが新聞社の人だったかどうかなどは、ご家族のみなさんは覚えていないということでした。

後日、避難所で知人からグラフ誌に写真が出ていることを知らされました。石原さん一家は現場では、撮影されたことは気づいていませんでした。
「我々としては写してほしくないけども、しかしそれも一つの報道のあり方としては、まあ容認できると思いますけどね」と保生さん。美雪さんは、「どういう状況やったというのは見てみないとわからない。言葉だけでは伝わらない部分があるから」と継いでくださいました。
《取材日 2009年5月29日》

取材風景

14年後、同じ場所で

読売新聞の写真は、前列左が保生さん、右は次女・美雪さん。中列左で手を合わせる長女・由紀子さん、同右は妻・英美子さん。後列の二人はご近所の人。

同じ場所、建て直した家の前で。左から石原保生さん(82)、英美子さん(73)、美雪さん。(2009年5月29日 東灘区魚崎北町で)