報道写真

【写真】焚き火で勉強。食事を温める間も本を話さない受験生=1995年1月24日、神戸市東灘区
(C)読売新聞社

チーム写真

受験はうまくいったの?

大災害のさなかでも勉強しているなんて驚き。後ろにいるのは家族なのでしょうか。この女性は、受験に受かったのだでしょうか。このとき、どんな気持ちで勉強していたのでしょうか? 【つくば開成高校京都校チーム】

カメラマン

東灘小に避難していた家族を撮影

読売新聞に問い合わせると、撮影は当時、読売新聞大阪本社編集局写真部記者だった吉川英治さん(54歳、現・大阪本社メディア戦略室兼編集局写真部専門委員)とわかりました。

Q.このころ、受験生を主体に撮っていたんですね。
A.震災発生当初は、被災状況や救助活動を取材していましたが、一週間が過ぎ、取材にも心にも少し周りを見わたす余裕ができ、直接的な被害状況ばかりを取材・報道するのではなく、そろそろ視点を他のことに向ける必要も感じて、避難所で不便な被災生活をしている人たちに視点を向け取材を始めていました。そんな中、この時期に『受験生は大変だろうなぁ』と考えると、避難所で受験の本や参考書をもって勉強している若者たちが多く居ることに気付き、そんな視点であちこちの避難所をまわって受験生たちを取材しました。

Q.撮った場所はどこですか?
A.神戸市東灘区の東灘小学校の避難所。写真の後ろに写っているのは自衛隊のテントです。

Q.写っている方との交流は今もありますか?
A.当時、交流する方法は現地の避難所を訪ねるしかありませんでした。携帯電話は一般の人たちにまだまだ普及していませんでしたし、自宅の電話番号を聞いても電気も通じていない状態でしたから電話連絡が取れる状況ではなかったですからね。避難所から出て行かれた方とその後交流が続いた方もいましたが、この受験生の家族との交流は現在ありません。

Q.写真の人は何の受験ですか?
A.大学受験だったと思います。

Q.どのように探していったらいいでしょうか?
A.写真の受験生をピンポイントで探すのは難しいかもしれません。   当時、避難した人のリストでもあれば探せるかも知れませんが…。   この避難所の近辺の人たちだと思うので、小学校周辺を直接訪ねて当たるしかないかと思いますね。

Q.地震のあった1月17日は、どうやって神戸まで行ったのですか?
A.当日は、大阪の会社に泊まって仮眠を取っていた時に震災が発生しました。発生時は大阪市内の震度も大きくて、神戸があんな状態になっているとは想像も出来ませんでした。何も情報が入らないまま、午前中は大阪駅や十三大橋などを撮影していましたが、その後神戸の情報が入り、社のヘリコプターで神戸のハーバーランドにおり現地入りしました。その後、数ヶ月被災地を取材していました。(1週間ほど神戸で取材し、その後本社内で数日勤務し又現地神戸勤務を1週間というローテーションを数ヶ月間していました。)

Q.その時の神戸はどんな状況だったのでしょうか?
A.まるで戦地のようでした。ヘリで神戸上空に接近すると、街中あちこちから煙が上がり、ビルも倒壊して、まるで「ゴジラ」が通った後のように、街は破壊されていました。想像もできないほどのすごい悲惨な状況でした。

Q.1番印象に残ったことは?
A.直接的な惨状や被害も、とても辛く悲惨な状況ばかりでしたが、私自身が子を持つ親として、被災地で子どもが悲しみ、苦しみに耐えている姿を見ていると、とても苦しかった。(吉川さんは涙ぐむ)

Q.どういう状況で仕事をされていましたか?
A.報道カメラマンとして、撮影するのが最優先。食べるのも水分を取るのも後回しでした。震災発生時は車で寝たり、神戸支局の床で寝たり、取材陣も苦しい生活でした。撮るのが辛いほどの悲惨な現場や状況でも、「自分がこの震災の現状を撮らねば、記録に残さねば!」との報道カメラマンの使命感を心の支えにして非情なまでに撮り続けました。危険な状況の地区では、カメラマンは2人1組でお互いの安全を確保し連絡しながら活動していました。数ヶ月は被災地での取材活動を続けていました。その後は震災半年や1年などの区切り区切りで被災地へ入っていました。
  報道カメラマンに必要なのはコミュニケーション。まずは話しかけること。いきなり撮影するからメディアは嫌がられます。コミュニケーションを大事にすれば相手の自然な表情を撮ることが出来ます。
≪取材日 2009年1月30日≫

取材風景

「この人知ってる」

東灘小学校周辺で、何件か聞き込みをした後で、小学校に直接行きました。しかし、「分からないなぁ」と言われました。その後2件聞き込みをしましたが「忙しい」とのことで取り合ってもらえませんでした。
古くからのお店で尋ねるとわかるのではないかと、近くの卓球センターに行ってみました。同センターの藤瀬裕子さんに、内容を話して写真を見てもらうと…、「この人知ってるよぅ」と言われました。
写真に写っている受験生は、折口さんで、まわりの人たちは折口さん一家ではないか、というのです。
藤瀬さんと折口さんのお母さんとは、同じ職場の研修で一緒だったそうです。
さっそく、東灘区本庄町の折口さん宅を訪ねましたが、留守でした。

《取材日 2009年3月18日》

取材した人

自宅は全壊。受験は…合格しました

ご家族にお願いして、ようやく、当時受験生だった小笠原(旧姓・折口)智恵美さん(32)に電話でお話を聞くことができました。智恵美さんは当時17歳の高校3年生。大学受験まっただ中でした。現在は、川崎市にお住まいです。事前に、写真をお送りしたうえでお話を聞きました。

Q.教科書を開いている人は、智恵美さんに間違いないですか?
A.はい、そうです。

Q.後ろにいる方はご家族ですか?
A.はい、そうです。

Q.智恵美さんの隣にいる人は?
A.兄は福井に居てたんですけど、安否を気にして福井から避難している小学校まで来てくれてたんで、丁度その時の写真なんですよね。

Q.写真を撮られたことを知っていたんですか?
A.はい。

Q.撮影者の吉川さんとは連絡を取っていましたか?
A.えーと・・・その後ですね、差し入れとか頂いたり、その後に地震のダイジェスト(の本)とかみたいなのが出たんですけど、その時に載っていたんで、本はプレゼントしてもらいました。

Q.写っていた時に何の本を読んでいたんですか?
A.あんまり覚えてないですけど…文系だったので、国語か英語の参考書だと思うんですけど…。

Q.写真を撮られた時の状況を教えてください。
A.兄と小学校で焚き火にあたってからだを温めてまして、丁度その時に読売の人が来てました。

Q.読売新聞の人とは何か会話を交わしましたか?
A.「大変ですね。」とか「何が欲しいですか?」とか聞かれたと思う。あんまり何をしゃべったかとか細かいことは覚えてないですね。

Q.読売の人になんて答えたか覚えてますか?
A.えーと…当時食べ物がパンとかそういうのだったんで、普通の食事がしたいみたいな風に答えたかもしれません。

取材した人
〔受験について〕
Q.受験は大学ですか? 差し支えなければどこの大学ですか?
A.大学受験です。武庫川女子大学です。

Q.その時の合否は?
A.合格しました。

Q.受験の時辛かった、しんどかったことは何ですか?
A.寒かったですけど、体が興奮していて、寒いとかも思わなかったし、辛いとか思う気持ちの余裕がない。その日は、何も思わずにただ現実が把握できないまま、気持ちが追い付かなくて、だから、つらいとか、しんどいとか思う余裕はなかったですね。

Q.合格したのはすごいですね。
A.幸いにも、すぐ同じ場所に家を建てたんですけど、建てるまでの間にマンションを借りることが出来て、マンションを借りるまでの間は、私だけ母方の実家に帰ってたので、勉強する環境が困ることはなかったですよね。
周りの同級生とか、家がつぶれてしまって、親の経済的な理由で大学断念した子とかも周りに居たんで、まだ恵まれていたほうかなと思って、辛いとかはあまり思わなかったですね。

取材した人
〔震災時の話〕
Q.当時の心境はどんなだったのか?
A.当時ですか…3連休の最後の日。次の日から学校で、早朝の5時45分頃に地震があったと思うんですけど、最初、寝てて「ドカン!!」という音がしたんですよ。 関西に大きな地震が来るとは思ってなかったんで、最初は地震が何か分からなくて、爆破されたような衝撃が「ドッン!!」としたんですね。それで、何か「ガッタッガタ」ってすごい揺れまして、揺れがおさまってベッドから起き上がった時に真っ暗だったんですけど、まっすぐ歩けなかったんですよ。
何でかなぁと思って目を凝らしてよく見たら、家自体が斜めになっていたので、歩けなかったんですよ。それで兄が一人暮らしで大学に行ってたんで、兄はいなかったんですけど、両親が一緒に住んでまして両親が家具の下敷きになってたんですよ。それで、もう隣の方は亡くなってますし…。

Q.ご両親はどうやって救出されたのか?
A.私が寝てた部屋と両親が寝てた部屋とは離れてたんですよ。それで私は下敷きにならなかったんで、ベッドから飛び上がって、ドアがちょっと開いてたんですよ。そこからくぐりぬけて廊下に出て、もう両親がいる部屋には向かえなかった。行けなかったんですよ。壊れてて。それで大声を叫んだら呻き声が聞こえたんで、近所の人にお願いして、みんなで家具をどけて、両親を救出しました。

Q.周りの状況はどんなだったですか?
A.周りは…東灘区が地震で一番死者が多かった区なんです。それで、近所の方も亡くなってますし、私が住んでいた家も全壊してますし、結構あの周りの家も全壊、半壊があたり前で、火事はなかったんですけど、がれきの山ですよね。周りは、何が何か分からなくて、地震があったというのも理解するまでも時間がかかりましたね。

Q.地震が起きた前の日は何をしてましたか?
A.前の日は、3連休最後の日で、兄は大学でいなかったんですけど、3人で前日は、阪急のデパートに、大学に行くための服とか買いに行っていたので、本当に普通の休日を過ごしてまして、普通にご飯も食べて、普通にお風呂も入って、普通に就寝した。本当に普通の1日でした。普通の日からこうなってしまったんですよね。

Q.地震が起きた日はどのような1日を過ごしましたか?
A.まず、家が4階建のマンションだったんですね、マンションのの中に私達も住んでまして、そのマンションがうちのおじいちゃんが建てたマンションだったので、あと他にマンションで住んでいた方の安否確認をしたり、自分のマンションで亡くなった方はいなかったんですけど、隣の灘区に祖母が住んでいたので、歩いて安否確認をして過ごしました。

Q.家はどのくらいで建ったんですか?
A.結構すぐに建ちましたよ。地震があったその半年後か秋くらいには建ちましたね。

Q.当時の神戸を見てどう思いましたか?
A.地震の当日は水もないし、電気も遮断されてて、ガスも遮断されてた状態で、外から入ってくる情報というのが全く分からなかったんですよ。それでまぁ、落ち着いて、ニュースとか、ラジオかなぁ、あれそこら辺の記憶はないんですけど、神戸のその部分だけが本当に爆破されたような、戦後みたいな状態だけど、周りの大阪とか行ったら普通の生活が営まれてたりだとかしてたし、そういうのがびっくりしたかなぁ。別世界みたいな。

Q.一番つらかったこと、大変だったことは?
A.1週間か2週間くらい避難所にいたんですけど、2週間お風呂に入れなかったんですよ。2週間もお風呂に入れないことないじゃないですか、それは嫌だったし、トイレをしてトイレの水も流れないんで、バケツでどっかから水を持ってきて、バケツでトイレを流すんですよ。そういうのが結構しんどかったかなぁ。

Q.当時一番欲しかったものは何ですか?
A.水さえ手に入らないのが当たり前だったんで、何もない極限状態におかれちゃうと、何が欲しいとか、これが欲しいとか、こうしたいとか欲求というのはわかなかったですね。

Q.震災当時に一番思い出に残っていることは何ですか?
A.自衛隊の人とか、運動場に簡易でお風呂とかを作りに来てくれたりだとか、自衛隊の人って、間近で見れることってなかった。怖いイメージを持っていたので結構みんな親切だったし、それと石原軍団の炊き出しとか芸能人の人とかもボランティアとか来てくれたりとかしたし、ボランティアで地方の人とかから物資が送られてきたのは嬉かったですね。
《取材日 2009年6月29日、川崎市での面接取材を2010年1月に横浜緑ヶ丘高校が担当》