報道写真

【写真】自衛隊の懸命の作業が続く中、ぼう然と立ち尽くす被災者=1995年1月23日午前11時10分、神戸市長田区で
(C)読売新聞社

チーム写真

何を見つめているのか

地震発生からもうすぐ1週間がたとうとしているときに、この女性は何を探しているのでしょうか。背後の、懸命に捜索活動を続ける自衛隊員のたくましさと対照的な、この女性のまなざしがたいへん気になったのです。この女性に会えるか、私たちは取材を始めました。 【横浜緑ヶ丘高校チーム】

カメラマン

なかなか声をかけられなかった

読売新聞社大阪本社読者センターに問い合わせたところ、撮影したのは当時東京本社写真部に所属していた川口敏彦さん(現・大阪本社写真部)と判明。電話でお話を伺いました。

Q.現場には何時頃,どのような手段で到着しましたか?

A.道路は渋滞がひどかったため、オートバイの後ろに乗って、中央区にある神戸支局から長田区まで行った。朝早くから歩きながら取材をしていて,この写真を撮影したのは11時10分。

Q.この状況,このアングルをどのように撮影しましたか?
A.自衛隊は、下敷きになって助からないまま亡くなった方々の遺骨を探している。少女は自宅の焼け跡から思い出の物を探していた。普通のレンズでは後ろの自衛隊が小さく写るので望遠レンズで自衛隊を大きく写した。

Q.被害した人と接するときに気をつけたことは?
A.家のあった場所に位牌を添えたり,焼け跡の遺骨を探している人を目の前にし,なかなか声をかけることが出来なかった。みんなぐったりしていて元気がなく, 新聞に必要な最低限の事実関係だけを聞いた。

Q.神戸に入ったときどう感じましたか?
A.カメラマンとしても一個人としても『自分の経験上、最悪の事態だ』と思った。
ヘリコプターから見ていたときにも人々が焼け死んでいるのは想像で分かったが,降りて位牌を供える家族の姿を見てリアルな現状が分かり『平和な日本でこんなことが起こるのか』と信じられなかった。

読売新聞は、震災5年の2000年1月に、別のカメラマンが追跡取材をしていることがわかりました。その記事で、女性のお名前(旧姓も)と写真の撮影場所が長田区内ということがわかりました。ただ、具体的な場所は東京本社勤務だった川口さんに土地勘がなくはっきりしない、とのこと。記事に、「上京している」とありましたが、川口カメラマンに聞いても「いまの居場所はわからない」とのことでした。
《取材日 2009年4月28日》

取材風景

当時の住宅地図が鍵に

横浜市中央図書館にある、震災直前の神戸の住宅地図を見ると、女性の旧姓(あまり多くないお名前です)と同じ名字のお宅が、長田区内の火災の発生した地区にありました。

現在の住宅地図でも、近くに同姓のおうちがあり、その住所に手紙を出したところ、ご家族が八王子に転送してくださって、なんと、ご本人から私たちに電話がかかってきたのです。

現在のお名前は小川麻理子さん。快くインタビューに応じていただくことになり、八王子駅近くのホテル内の喫茶店でお話を伺いました。

《取材日 2009年4月30日》

取材した人

見つかったのは指輪と焦げたネックレス

<小川さんは、当時19歳。パートで市立中央市民病院に勤めていました>

揺れ出してからすぐ目が覚めた。色んな方向にぐわんぐわん揺れた。怖いというより、死ぬなと思った。とりあえず「お父さん〜お母さん〜!」と声を掛けた。

家の中の状況は怖くてわからなかった。すぐ蓮池小学校に避難した。
向かいの家と近くのビルが傾き、大きな路地が塞がって、近所の人達と「どうしようか」と話した。結局他の家の傾いた隙間を通っていった。

蓮池小学校は、とにかく人がすごかった。玄関も教室も体育館も全部いっぱいで、座ることもできずみんな立っていた。お年寄りは座ったり寝たりしていた。寝るときは、交互にパズルのようになってぴったりくっついて寝た。
家のあたりに火が迫っていく。
父に「家あきらめろよー」と言われた。
でも、もしなんかあっても自分だけじゃない。みんな一緒という安心感があった。色んな人と話もできたし、怖くはなかった。

写真を撮られるまでの7日ぐらいが、一番頭の整理ができていない時期。お風呂に入れないのが辛かった。食べ物も、途中から弁当になったが、それまでは1家族でソーセージ1本とかだった。家族みんな助かったから幸せな方だったけど…。

取材した人
<小川さんは家の焼け跡に行こうと思った>

思い出のものが残っていないか、4日目か5日目に途中まで行ったが余震で行けなかった。 (家の跡に立ったときは)焼けちゃったーって感じ。呆然。
母がずっと貯めていた500円玉が気がかりだった。自分も、「たしかこの辺にあれ置いたなー」と思い出しながら、意地になって探した。
見つかったのは指輪とこげたネックレスだけだった。(といって見せてくれたネックレスは焦げていて、私たちの前でポロッと切れてしまいました)

自衛隊が来て、色々ひっくり返していった。まだ見つかっていない遺体を探していたらしい。一人暮らしの人とか。
写真を撮られたことには気付かなかった。「何してるんですか?」と声かけられた。母が「お金…お金…」と答えた。

<翌日、1面に写真が載った新聞が避難所に配られた>

新聞社の人が(避難所に)何部かくれた。
おばちゃん達に「おねえちゃん載ってんでー!」と言われた。
びっくり、恥ずかしかった。知ってる人には「見たでー!」といわれ、ちょっと有名人になってしまった。

取材した人
<なぜ、焼け跡に1週間も行かなかったのか>

いつか家に戻れると思ったから、避難所には何も持っていかなかった。多少たりとも持っていけばよかった。授業中に回した手紙とか…
いつ余震がくるかもわからないし、取りに帰る余裕もなかった。
屋根が落ちてがっちりしたタンスの上に乗っていた。火事にならなくても、あの家には住めなかったと思う。
《取材日 2009年6月20日》

取材風景
【写真】震災から15年。帰省して、写真と同じ場所に立つ。自宅跡は真新しい家並みに囲まれた、防災倉庫のある公園になっていた。(2010年1月4日 撮影=つくば開成高校OB 山本駿)