報道写真

【写真】神戸大生3人が亡くなった西尾荘跡=1995年3月18日
神戸市灘区六甲町で
(C)神戸大学ニュースネット委員会

チーム写真

ここで何が起きたのか

自転車や看板が目にとまり、気になりました。震災が起きたとき、どんなことがこの現場で起こったのか、亡くなった学生たちはどんな学生生活をしていたのか、取材することにしました。【関西学生報道連盟チーム】

カメラマン
撮影した住田さん
(photo/藤原靖史)

なぜか焼け残っていた看板

ここで亡くなった神戸大生は、経営学部3年・中村公治さん(当時21)、工学部3年・坂本竜一さん(同22)、同・鈴木伸弘さん(同22)の3人。いずれも、2棟あったうちの北棟の1階に住んでいました。

撮影したのは、ニュースネット委員会OBの住田功一さんです。放送局のアナウンサーをしている住田さんは、取材の合間に私物のカメラで記録を残しました。この写真は、広く社会に公開するために大学新聞に版権を託している写真の一枚です。
住田さんが、3月17日と18日に現場を訪れて撮影したネガの中の1枚です。これ以前にも訪れていますが、一面の焼け跡に道がなく、現場に近づけなかったということです。2ヶ月たって、道がついていたので、西尾荘跡までたどり着きました。
 焼け跡には、大学の友人たちの供えた漫画本や缶ジュースなどがあったそうです。「茶碗の破片などにまじって、遺骨の欠片がまだ残っていたのが、忘れられない」と、住田さん。「看板は、なぜか焼け残って置いてありました。向かいの家も2軒ほど焼けずに建っていて、一面の焼け野が原のなかで不思議な光景でした」とも話していました。自転車は、現像して、写りこんでいることに気づいたそうです。
《取材日 2009年4月27、29日》

取材風景

「中村君はまだ中にいる」

中村公治さんの同じサークルの友人、井口克己さん(当時 経営学部3年)の、震災1年後の手記です。

大きく揺れました。揺れがおさまったので外に出ると、向かいの木造の家の1階はほぼ全滅で、近くの烏帽子中学校は火事でした。
とりあえず明るくなるまで待って、午前7時ごろ、名古屋の実家に電話で元気だと伝えました。

午前8時頃、友人の中村公治さんの下宿、西尾荘に行った。 
もうどこかに逃げ出したと思ったんですが、大家さんが、「中村君はまだ中にいる」と言ったので、あわてて向かいました。
そこで見たのは、手だけが出ている、中村の姿でした。
体の上にはコンクリの床。頭には、スキーに行くからと言って、貸した僕のスキー板がのしかかり、全く動かない。

僕は、がむしゃらに中村の上にあるものをどけにかかったが、いっこうにらちがあかない。
そこに、年輩のおじさんがシャベルを持って現れ、手際よく作業を進めたんです。この時、僕は、「よかった中村を助けられる」と喜びました。
ノコギリをつかって梁などを切り除き、ほぼなくなろうとしているとき、外から「火のまわりが早い。早く出てこい」という声がした。
確かに火は迫っているけど、もう引っ張りだせると思いました。でも、僕のスキー板が邪魔して動かないんです。 
もう間に合わないと思いました。
僕は、最も敬愛すべき友。中村を助けられませんでした。

取材した人

「出れるのかなあ」と言っていた中村

井口克己さんは、新聞社勤務の後、現在はIT関連会社に勤めています。14年たったいま、あらためてお話を聞きました。

「出れるのかなあ」、「あとちょっとだよ」と、声を掛け合った。埋まってるだけで出てくる、と思っていた。中村君は「痛い」と言っていた。はやく取ってあげなければ、と思った。
20、30分くらいして、気づいたときには火が来たんですね。西尾荘の屋根が落ちそうなくらいに燃え移っていた。風が強かった。
西尾荘の崩れたものを取り除こうとしていた人は5、6人いたけど、気づいたら最後の1人になっていた。どうにもならなくなり、自分も立ち去った。立ち去ったと同時に崩れ落ちる音がした。
「ごめんなさい」という気持ち。最後、話をしていたかどうかまではわかりません。その場に立ち尽くしていました。

地震直後は、中村君の話をよくした。中村君の死を忘れさせないために、たくさんのところに露出しておこう、と。たくさんのメディアに出た。
(転職先の)東京では気にされない、1月17日自体話題にならない。自分からすることでもないから、最近はめったに(中村さんの)話をしない。3、4年は話をしていない。この取材が久し振りです。
《取材日 2009年9月24日電話取材、2010年2月6日横浜緑ヶ丘高校が写真取材》

取材風景

全焼60棟、死者26人

六甲町2丁目だけで、60棟が全焼。犠牲者は26人にのぼりました(朝日新聞2004年1月6日付)。
六甲町2丁目の「まちづくり協議会」の現会長四茂野尚樹さんは、区画整理などによって学生らが住んでいたアパートはほとんどが姿を消した、といいます。
《取材日 2009年5月21日》


取材した人

はよ逃げてーって叫んだの

西尾荘の建っていた場所は、区画整理ですっかり様子が変わっていました。西尾荘と露地1本隔てて東隣に住んでいた、竹田良子さん(78=仮名=)にお話を伺いました。

いつも名前を呼んであげているの。空に向かってね。「鈴木くん。坂本くん、中村くん」って。忘れないように、毎日ね。特に鈴木くんとはよくすれ違ったの。家の前で。その時は名前知らなくかったの。たまたま出会っていてねぇ。あの方が亡くなってはらへんかなぁと思ってたのよ。(あとから鈴木くんがその人だったと知って)地獄でねぇ。
毎年、東遊園地に行くのよ。

地震直後(に私は)、家に閉じ込められそうだったけど洋服たんすの裏からなんとか出ることができた。
(家を)出たとたん、火の粉が舞っていたの。(外に出て)毛布をかぶって叫んでいたの。「はよ逃げてー逃げてー」ってC
(西尾荘のところでは救助のため)神戸大生が走りまわっていてね、偉いなー思った。
(神戸大生らは)火の粉が舞う中、「のこぎりーのこぎりー」いうてたの。そこであたしは「はよ逃げてー」って叫んでいたの。

西尾荘は建て替える、建て替えるっておっしゃってたのよ。木造で古くてねー。火が出なかったら助かってたのよ。大家さんのお母さん(故人)が助かったのは、ちょうど端(の部屋)だったから。学生3人位が「重い、重い」って言うて運んだの。学生たちは一生けん命でしょ。

(跡地に仮設のアパートが建ったあとは)朝夕、お茶とお花を供えていたの。供えなきゃ、いられないでしょ。今はもう、古い道(西尾荘の前にあった路地)があるだけ。
熱いお茶とお花を供えてね。(竹田さんが供えていた場所に)まだ暗い夜明け前に、学生さんたちがお供えしたり、合掌されたりしていました。学生さんがタバコを供えてくれてたの。上野志乃さん(当時神戸大発達科学部生でやはり震災で亡くなった)のお父さんも車で立ち寄ってくれてね。菜の花を供えてくださってね。私は菜の花が大好きになったのよ。
皆、いい子は早う亡くなるんや。ずっと名前呼んでるのよ。空に向かって。

現在の竹田さんの家の一角が、西尾荘の建っていた敷地に少し重なっているのだそうです。
《取材日 2009年4月5日》


取材風景

15年たっても時は止まったまま

震災15年の2010年1月17日。慰霊碑を訪れたご遺族に伺いました。

中村公治さん(当時21)の母・房江さん
いつきても、時はとまったまま。21歳の時のままで、
最近は(慰霊碑に、鈴木さんの母・綾子さんと)こうして2人で来るようになった。
亡くなったと思いたくないですね。
会いに行ってくると言って家をでてきた。
あの時サイレンの音が鳴り響いててすごかった。このへん一体に鳴り響いていた。
(眼前に広がる神戸の街を見下ろしながら)息子は亡くなった時と同じまま。

鈴木伸弘さん(当時22)の母・綾子さん
元気だったら今ではどんな感じなのだろうかと思う。
生きていたらと思うと…。
西尾荘があった場所にはいってない。もう他の建物が建っているでしょう。
あの時を思い出すと、生きていると思いたいですね

坂本竜一さん(当時22)の父・秀夫さん
年いくにしたがって寂しくなる。(竜一さんの)同級生にはたくさん孫がいて…。
(震災で)人生全然違う。普通の生活を奪った。
(竜一さんに)あの世で会ったらびっくりするやろなあ。
(供えた花のバスケットは)いろんな人からもらったものを一本ずつ合わせて作った。
(15年目になったが)区切りなんてないわ。もうこんなにたったのかとも、まだこんなのかとも思う。それ(震災)より前を思い出す。震災後は切って捨てている。(震災後は)苦しいこと、悲しいことばっかり。今は落ち着いている。
西尾荘で関わった人は忘れられない。報道で思い出すんじゃ。
阪急から上(山側)は電気がついてる。天国と地獄だった。
1月はいややね。20日過ぎたら多少は楽になるけど。(竜一さんが帰省する)年末から正月にかけては楽しい時期だったけど、あれ(震災)以降はとても…正月じゃない。95年が最後。あんな正月絶対ないから。

《取材日 2010年1月17日 神戸大ニュースネット》