報道写真

【写真】崩壊した民家からタンカに乗せられ救助される島民。ガレキの中の救出作業だ=1995年1月17日午前、淡路島
(C)産経新聞社

チーム写真

現場はどこなのか

淡路島ではどのような救出活動が行われたのか、この写真をもとに調べようと思いました。ただ、ヘリからの空撮だけに、写真説明には「淡路島」としか記載されておらず、現場を絞り込むことから始めました。【淡路高校チーム】

軒下にヒントが

まず、掲載されていたグラフ誌の1ページ大のカラー画像をじっくり読み解くことにしました。
チームで写真をよーく見てみると…、
▽正面の建物は理髪店であること(軒下左端に赤青のサインポールがある)
▽右隣の小さな屋根はお堂のように見えること
▽消防団「北淡町」という法被から、現場が旧北淡町の可能性が高いこと
が読み取れました。淡路市北淡町内で理髪店の数は限られています。

《2009年3月26日 キックオフミーティングで》

取材した人

戸板を担いでいるのは西條さん

まず、写真に写っている場所は、すぐに特定できました。倉本理容店です。写真左下の散髪屋の三色回転灯と右上のお大師さん(お堂)がヒントです。部員の南君がいつも通学している道です。理容店はもう営業していませんが、建物は今も残っています。
消防団ルートの調査は、まず当時富島地区の消防分団長をしていた高田一夫さんや他地区から応援に来ていた消防団員も含め様々な人に聞きました。学校に残っているNHKの当時のニュース映像の録画に出てくる人と、写真の戸板を担いでいる消防団員の前列左の人の横顔のかすかな類似に気づきました。西條和明さん(60)という消防団員であることが分かりました。


当時富島消防団の西條さん談「9時から11時ごろちゃうかいなと思う。中の町と東の町がひどかった。時間的にもはっきりわからんのやけど。女の人が歩けなんだんよ。あまりけがをしてなかったけどな。おばあさんが。運ぶ時に戸板で運ばんかというて運んだ記憶もあんのよ。戸板やと思う。板やな。おそらくこの中道を入って、出て行ったと思う。」


運ばれている人は、写っている家の近所のCさんだと分かりました。この写真の前後に撮影された写真と当時の富島の地図で確認しました。また、西條さんの当時の記憶からも確認できました。Cさんはご年配のため親戚の人に尋ね、現在健在であることが確認できました。

記者らしき人は、主要新聞社5社の淡路支局に尋ね、震災当時の記者までたどり着きましたが、該当者は不明です。各紙とも、当時は近隣の府県からも応援が来ていたので、その人たちの可能性が大です。

この写真の撮影者は、産経新聞大阪本社の川村カメラマンだと分かりました。当時撮影した多数のネガの中からこの写真が確認できました。
インタビューをしたほとんどの人々は、震災当時は無我夢中で、時間も、自分の行動も、他の人の行動も覚えていませんでした。

《取材日 2009年10月》


カメラマン

上空から消防団を追った

産経新聞大阪本社に問い合わせると、撮影したのは現在、同社写真報道局部次長兼航空部次長の川村寧さん(当時・編集局写真部員)と判明。大阪難波の同本社でインタビューに応じてくださいました。

豊中に住んでいて部屋はぐちゃぐちゃになった。地震から10分ぐらいして会社に出てきてくれ言われた。
町の写真を撮りながら出社したら午前8時ぐらいになっていた。
8時40分ぐらいにヘリを飛ばして神戸の方に向かった。
高速道路倒れた所や、バスが高速道路の縁で止まっている写真も撮った。長田がすごい火事で、煙で真っ暗だった。2時間半おきに給油しに帰って、フィルムも替えながら撮っていた。

震源地が淡路の方だとわかりそっちに行った。北淡町の方で消防団が作業をしていてその辺りを飛んでいた。
戸板で誰かを運んでいたのでそれをずっと撮っていた。

東京からも1台応援ヘリが来ていた。時間はわからない。(淡路の)南の方は東京のヘリが行った。

もちろんヘリに乗っている間は、(地上の)声は聞こえなっかたが大変だというのは分かった。呆然とした中でやっていて、写真を撮るのに必死だった。
あとで、下に降りて人の話を聞いて、本当にとてつもないことになっていると実感できた。
自分では冷静なつもりだったが、会社に帰って無線で連絡取っていた相手に聞いたら「お前、焦っていたのか舞い上がっていたのかわからんけど、何言っているのかわからなかった」と言われたから、焦っていたのかも知れない。
《取材日 2009年11月7日》

取材風景

ぐるりは全部つぶれてた

写真の現場うしろに写る理髪店の店主だった倉本喜一さん(86歳、富島東の町。当時倉本理容店経営)に聞きました。よく右の写真を見て下さい。産経新聞の写真にうっつている家と、同じ住宅です。住宅の右側にはいまもお大師さんのお堂があります。

倉本さんは、現在も同じ家に住んでいらっしゃいます。ご自宅は残ったものの、内部は大変な状況だったといいます。この写真に写っている人や、救出の状況については記憶がないということでした。

「地震がやむまでよう立たん。蛍光灯ばらばらと布団の上に落ちてくるわ、電気の傘が動いてよう揺れるだけで、天井揺れるだけで。階段がめちゃくちゃとゆうか、階段外れとったな。
下へ降りてったら店なんか、もうめちゃめちゃなっとった。
家が建っていたからみんな助けてって入ってたんけど(避難しに入ってきたけど)、電気はつけへん、ストーブはつけへんわなぁ。靴下貸してくれ、足袋貸してくれゆうても、そんなんは出されへん。
家の中も持ち上がった。家は建ってるけど瓦おちてたなぁ。家だけ建っても、屋根とか家具とかそんなんめちゃくちゃや。ほんで、もうぐるりの木造(の住宅)は全部つぶれてた。(隣のお大師さん)つぶれとったはずやのに、(この写真を見ると)建っとんな。消防団かわからんな」
《取材日 2009年4月5日》


取材した人

8時間でほぼ救出完了できた理由

当時、富島消防団の分団長だった 高田一夫さん

 上から瓦をのけて、大きな棟木をのけて…。棟木は手でのけられず、当時の阿部造船所で油圧のジャッキを借りてって、救出にあたりました。大工さんとかが、円ノコとか、チェーンソー、バールを持ち寄り、消防団は、近所の人も、OBもおり、共同で救出にあたるような状態でした。
 間取りまでも、この家の人は何人、どの部屋で寝ているというのを、団員が把握されておりました。水防指令、台風とか出た場合、消防団員2人一組で独り暮らしの老人等を見回りさせていただきまして、そういう訪問をしておりまして、そういうことで家族構成が分かることが、それが救出が早かった理由だろうと思う。

 富島で29名が犠牲になりましたが、昼の2時過ぎぐらいで行方不明一人で、救出はほぼ完了いたしました。
 当時の105名の団員の長というんですが、指揮なしに、団員が自律的に西の町のほうから、東の町から協力しおうて救出にあたったと思われます。
《取材日 2009年5月15日》

淡路風景
【写真】震災後建て替えられた新しい家並みが広がる、淡路市冨島地区。目の前は播磨灘。(2009年3月 淡路高校の校舎から望む)

窓を少し開けていたのが幸いだった

写真で、戸板に乗せられているCさん(67歳)のご親戚にお話を聞くと、健在であることがわかりました。現在入居している療護施設に訪ね、Cさんに直接、震災の日のお話を伺うことができました。

 「下からドーンきて。そいで、横揺れて。8畳のいつも寝る場所ならつぶれて死んでたかもしれらん。たまたま斜めに寝ていて助かった。」とCさん。
 前のお風呂屋さんと、北側の家が倒れてきたものの、Cさんの家は倒れませんでした。
 「運がええんやろなーおもてるんです」とCさん。

 「あら地震やわと思って目をつぶってたんですけど、ぱっと手をやったらば顔が砂だらけやったんです。これは目をあけたらいかんなと、目をつぶったままこうしたんですよ」と、顔を払うしぐさをされました。
 普段まっすぐ寝るCさん。その時に限って斜めに寝ていました。
 「仏さんが右のほうにあってあったんですね。そんでガラス障子が全部外れて布団の上に来てたんです。大きな机が西から東に倒れてきて、蒲団が大きくて(机を)まともに受けなかった。障子見たら全部斜めにナイフで切ったようになってました」。部屋の様子は大変な状況でした。

 「灯油使ってくさいからガラスをあけてたんですよ。ちょっと窓が開いていて、そこで(消防が)入ってきて担架で出してくれた」と証言してくださいました。窓の隙間が開いていて、中の様子が見えたのも幸いでした。

 あとで聞いたところでは、町民センターに住民が集まって、町内会で班ごとに点呼したらCさんの返事がないので、消防団が救助に向かったそうです。

「自分が障害者だから、健常者とか関係なく声掛けて頂けたらありがたいなと思います。災害時は特に」と、Cさんは付け加えました。
《取材日 2010年5月5日》