報道写真

【写真】崩れた神戸市立西市民病院。ガレキの中で必死に行われる救出活動=1995年1月17日 午後5時
(C)読売新聞社

取材風景

「5階と連絡とれへんのや」

いったいこのような状況の中で、病院はどのように動いていたのでしょうか。当時の総務課職員小澤輝彦さん(67歳)に、お話を聞きました。

<電話線でも切れたんちゃうか>

 自宅は病院から約12km、ラジオで地震の被害を知った。
 病院へ電話を入れた、何回かするうちに通じた。当直の職員(Nさん)とつながり、「5階と連絡とれへんのや」というNさんに、「(なんでや? そこだけ電話線でも切れたんちゃうか?)」と言った。その程度なら心配ないだろうとノ。
 家を出たのは午前8時過ぎくらい。娘に車で送ってもらうつもりが渋滞で途中下車、あとは走って、着いたのは9時30分を過ぎていた

(病院に着いたら)想像外のことが起きていた。「こりゃえらいこっちゃ」。すごい人だかりで、マスコミもたくさんいてびっくりした。何かしないとノまずは入口の整理をしないといかん!と思った。

<救急の前は、担架代わりの畳やドアが積み上げられていた>

 救急の前は人がわんさかいて、どんどん押しかけてくる
 畳やドアが積み上げられて1mくらいの山になっていた。患者さんを乗せて担架代わりにして運んできたものだった。
 最初は正面入口と救急入口の2つの入口を開放してあった。その後、正面入口を閉めて、入口を1か所にした。救急入口で、副院長が患者さんをトリアージするためだった。
 別館は大丈夫、本館は潰れた状態、でも使わざるをえなかった  近くの市営住宅の住民多数、潰れはしなかったが、病院に避難してこられた。もちろん避難所ではなかったので、職員が中心となって、退去してもらった。

 5階では、トンネルを作って、ひと部屋ずつ患者さんを西から東へ引っ張り出した自衛隊などが到着するまでは、職員が行った  本館と別館をつなぐ渡り廊下は、つなぎ目のところで段差ができていた。渡り廊下からみると、本館の5階と6階が半分ずつ見えるような状態。
 ここに長椅子をかけてスロープのような形で避難してもらったとのことだった。
 自衛隊の到着は夕方ごろだったと思う、おにぎりの差し入れをした記憶がある。

<断水で水冷式の自家発電が止まる>

 非常発電装置は水冷式(水で冷やすもの)だった。停電で送水できず、発電装置も止まった。停電、ガスもダメ、水もない。
 あるだけの懐中電灯を壁にガムテープで貼り付けて、照明がわりにした。水洗トイレも大変だった。
 職員はどんどん来て、手はあまっているが、場所に困った。収容する場所、診察する場所がない。
 電気がこないので、レントゲンもとれないので、検査もできない。
 入院患者さんは、退院間際の人は自宅に帰ってもらう。引き続き治療が必要な人は他の病院に転送された。

 私は、おもにトリアージの手助けや調整をした。
 トリアージをする副院長の横にいて、その結果を連絡に走ったり、患者さんを診察室へ運んで行ったりしていた
 ちょいちょい抜けては、他のところがどん状況なのか、被害状況など見て回ったりもした。患者さんを順に並べて、転送の車へと運んだ。

病院へ向かう途中、須磨離宮公園から燃える長田が見えた。終戦の時5歳半くらいだったが、その時の町を思い出した。
 乾電池と水を差し入れてもらったのが一番役に立った。姫路の業者が玄関前に簡易トイレ10個設置してくれたのも…。

 再建した病院では、地下に小学校のプールの3分の2程度の水をためている(雨水と地下水)。3つの発電機と、ヘリポートも設置した。
 震災前は、病院内で火事という想定で、火元から逃げる訓練はしていたが、震災後は、病院の近くで多数の負傷者が出たという訓練もしている。
《取材日 2009年7月17日》

取材した人

増築してた、そこが弱かった

外科医・山本満雄さん(現・神戸市立医療センター西市民病院副院長)は、あの日の朝当直でした。

 外科で、当直していました。前の日から。南館でした。新しくできた所の2階に当直室があったんです。今は、新館で11階の建物があるとこの南側でした。そこの2階に当直室がありました。
仮眠していました。最初、5階が潰れているというのは、わからなかった。
 揺れておさまってから、外科の病棟、南館の3階を見回りに行って、棚か何かが落ちてきたくらいで他は異常なかった。
 見回った後に、今度は救急に呼ばれました。
 外傷の患者がいっぱい来ており、あと、心肺停止の患者さんも来ていました。

 6時くらいに、救急に行ったら、ものすごい患者さんが来ていて、止血とか縫合処置をした。それで、その(処置の)途中くらいに5階がつぶれているというのは、聞きました。

 近くに住んでいた先生は6時過ぎくらいには病院に集まってきていました。
 内科の先生で1人、5階のほうにいった先生がいます。それで、つぶれているということが、わかって、それから、たぶん救出に向かって行った。
 結局、廊下を歩いていた人が、1人亡くなられて
 他の人はベッド柵で(支えられて)、看護婦さんも大丈夫だった。

 僕は、救急のこと大変やったから、(5階の)詳しいことはよくわからない。
5階がつぶれたのは、その上に増築していたから。だからそこが弱くて、そこ(5階)も工事中だったのが、ひとつあると思う。上にもう2階積んでいて、そこの階も工事でいらっていたので。(亡くなった人が)1人だけで済んだのが、奇跡的やというか。かなりの人数が入院していましたからね。

<蘇生しても戻らない…でも心臓マッサージを続けた>

心肺停止の人が連れて来られているんですけれど、赤ん坊もいた。圧死というのかな。
 下敷きになって、呼吸止まってから心臓止まったような人。時間がもう連れてくるまでに30分以上たっているので、蘇生しても戻らない。
 ただ、家族の人はそばにおって「助けてくれ」といっているので、挿管して、バッグで空気を送って、心臓マッサージをしたりするけど、心拍は再開しない。
 普通ならある程度、状況みて、やめるんですけど、家族の人がね、すぐそばにいて。突然の地震でそうなったから。やっぱり諦めきれないところがあるわけで、ある程度、家族が納得いくまで、(といっても)そう長くはできなかったけど、長い人で10分くらいマッサージや酸素を送ったりしていました。その辺が一番大変だった。身内の人がなかなか納得できないので。

まだトリアージするとこまではノ(なかった)。(診察室の)中に、入ってきて、寝さして、外傷の状況とかいろいろ見て、順番に処置していくしかなかった。
 途中からは心肺停止した人を周りの人が連れて来たという格好だった。

 私もその日が手術日で、当日、病棟に行って、病院の裏が火事になってるのを見て、「きょうは手術はできないな」と思って、「明日の手術の予定はどうなるんかな」とか考えていて…。
 それから5年以上も、この病院では(手術)できなくなった。こんなに酷い(影響が出る)とは思わなかった。
 5階がつぶれているとか、電気も止まって、水道も止まってるのを知って、「当分駄目かな」とは思っていたけど。

 神戸で地震があると思わなかった。そんな大きな地震が来るとは。それも自分の勤めている病院であるとは、思ってなかった。

新館ができたのが、平成12年。震災から5年目。5年間は全くすることがないというか、職員でいて仕事がない。他の病院に変わっていった先生もいた。僕は神戸市の関連病院の中で動いて、中央市民のほうや西神戸のほうにいって働いた。落ち着いた時点でもう一回帰ってきた。


<昼ごろ携帯テレビで見て、自分の病院の状況が分かった>

 医者が出て来ることができなかった。交通が全部止まる。東灘の方の先生など、遠隔から通っている先生もいたけど、やっぱりすぐには出て来ることができなかった。
 歩いてとか自転車とか。ほかの先生はそんなふうにして来られた。  当直のドクターは、内科系が3人、僕が外科で泊まっていたから4人。
(1月17日の出勤記録では医師や看護師の出勤率は高くみえるが)これは、その日のうちに来た先生。一番大変な時は、その震災が起こって、2時間くらいの間くらい。その間に来れた先生は、この数字の半分もないかも。

 昼ごろ、ある程度落ち着いてきたら、携帯テレビ(電池式のもの)を持って来てる先生がいて、それをみて、ニュースで、自分らのいるところの状況が分かった。

<西宮の自宅は全壊。隣家のおばあさんは亡くなった>

 こっち(西市民病院)は、もう入院機能がなくなって、電気、ガス、水道がないので、しばらくの間は外来もできる範囲が限られる。しばらくして、長田区役所のワンフロア、(確か)7階を借りて、そこで、外来の患者とか診療は続けた。

 僕は、家が西宮です。家も震度7で、全壊になって、こっちまで通う交通手段もなかった。東灘の魚崎にまだそのころ診療所があった。そっちへ出務していた。外傷とかいろいろ処置したりしていた。

 夙川ってわかる?あそこも震度7。うちの隣の隣が完全に潰れた。で、おばあちゃんが亡くなった。うちは全壊といっても、少し傾いたくらい。8時頃、(自宅に電話をかけたら)つながったん。妻が「大丈夫だ。子供も大丈夫、ピアノがひっくり返った。」と言っていた。その後、電話はつながらなかった。
 家がどうなっているのかわからなかったので、家族の安否は確認しました。

 当日は、患者がいっぱい来ていたので、置いて帰るわけにはいかない。
 午後、2時、3時頃になると、外科の医者もほとんど全員集まってきたので、(全部で)外科医は6人いた。
  その頃になったら、することもないし、医者も足りていた。他の内科の先生たちも、看護師も集まってきたので、家に帰りました。  ただ、帰ろうにも帰る手段がない。歩いて帰った。

 20kmくらいかな。歩いて4時間、家に着いたのは8時過ぎか。足の皮むけました。

《取材日 2009年7月29日》

取材風景

うちの病院で生まれた子どもさんも運ばれてきて

当時産婦人科病棟担当だった、看護師のOさん(56=取材時)にもお話を伺うことができました。ご本人の希望で、写真取材はできませんでした。

<病院がつぶれるなんて思わなかった>

地震が起き時は、家におりました。
家と病院の間というのは自転車で15分くらいなんです。
家も潰れました。年老いた母がおりましたので、その母を安全な所に寝かせて、具合が悪く、ほぼ動けない状態でしたので、寝かせて、それでバラバラの家の中を片付けて…。2階のピアノが天井からドーンと落ちてきて、「目の前にピアノ落ちてきてるわ」という状況だったので、半壊なんですけどほぼ全壊に近い半壊でしたね。

<戸板で亡くなられた患者さんとか、会計の前にもずらーっと>

 行きましたら、1階のちょうど救急のところが開いてましてね、夜間だから。そこ見たら、本当にもう泥だらけでの中で戸板で亡くなられた患者さんとか、呼吸の苦しい患者さんとか、みんな入ってこられていて、会計とかの前にもずらーっと横たわっておられたのです。
救急外来というのは、学校の教室を2つ分くらいの大きさですよね、そこにもうぎっしりの人がいらっしゃいましたね。  私が行ったときには、報道関係が入ろうとしていて、入口を遮って入れなかった。「ここの職員です。どいて下さい。」と言って入ったのを覚えています。

<誰もが5階の崩壊に気付き始めたのが、午前9時くらい>

 10時のお産が終わった直後ぐらいですね。
これは、当時の時間経過の記録なんですけどね。9時頃には、病院前の駐車場にも人があふれて、それから物品がないなということで、誰もが5階の崩壊に気付き始めたのが、午前9時くらい。
私たちはお産があったので、10時台に無事に生まれたあとに気がついて、12時くらいからは、職員の数名で出せる人だけ出して、6名救出したんですよ。そのあと、愛知県などのレスキュー隊が来てくれて、助け出されたんですよ。こんな狭いところから、1人ずつ寝たような状態で出されて行ったんです。すべての患者さんが救出されたのが、23時です。

取材風景
<閉じ込められた5階の看護師は、患者さんを呼び続けた>

広い病棟ですのでね。中に入っていっても、余震がひどくってね。
 みんなこわごわだったんですよ。それでも、助け出すのに必死でしたね。看護師も3名ね、(層崩壊した5階の)詰め所にいましてね。患者さんの名前1人ずつ呼んだらしいです。1人ずつ呼んで、返事が聞こえて、また何回も何回も呼んで、それだけでなく、うたも歌って、
 患者さんに「もっと大きい声出して、返事してー」って言うてね、「__さん」って言うてね、とにかく返事がなかったら、何回も呼んで。ちょうど連休明けだったので、外泊してる人や、連休明けに入院してくる人も多かったので、看護師3名を入れて、43名くらいでした。

1人の方が亡くなられてね。5時46分にはまだ、採血とかしなくって、6時過ぎたらお部屋に採血しに行くんですけどね。5時46分はみな寝てて、ベッドの下へもぐれたんちがうかな。その方は、息子さんの就職のことでね、(その話)聞かれました?

 早く採血して行こうとされてたんで、詰め所に来られて採血されてたんですよ。その帰りしなに地震にあったんですよ。 息子さんが青年の主張の時に言ってましたね。「お母さんは最後まで自分のことを思ってくれてた」と。

でもね、「助けにいくよ、大丈夫よ」という声が励ましにはなったようです。

 この写真ですよね。下(崩れた5階)から6階に上げていくところですね。ほんとに必死でしたね。「__さん、__さん。」言うてね。みんな泣いてました。思い出すと涙出るから、うまく言えないんですけどね。

<うちで生まれた子どもさんも搬送されてきた>

 (病院全体では搬送されてきた)67名の患者さんをリハビリ室とかに安置させていただいて、それから近くの体育館の方に行っていただいたんですけれどもね。ほんとに朝の大地震でね。こんなことなければ本当に幸せに暮らしてはった人たちがね…。

 家で亡くなった子供さんも運ばれてきた。中には、うちの病院で生まれた子どもさんも。
見てたら圧死の状態やから、ピンク色に見えるんですよ。まだ、生きてるように見えるんですよ。「なんとか助けてやってください」って来られるんですけど…。

<廊下にお布団を敷いて寝てもらった>

 私も、搬送に携わりましたね。
元気な人は家族が来られているので、名前を確認して帰っていただきました。まだ、入院しないといけない方は、病院が継続困難で、他病院へ搬送することになってましたので、搬送の介助をしてました。
どこもが、被災してますでしょ。で、当時の看護部長さんが、日本看護協会(職能団体)の支部長をしていたので、西区や須磨の奥の方の被災してない病院の知り合いの看護部長さんへ電話をして受けてほしいと言ってくれた。
頼んで、患者さんたちをすべて搬送することができたんです。搬送するのに2日間かかりましたね。

<転院患者の搬送は通りがかりの車に頼んで…>

目の前の道路も潰れてますのでね。搬送に車、と言っても、救急車なんて全然来ないんです。
(病院の)前を通る車を止めるグループがいてて。(ヒッチハイクのように)止めて、そこへ患者さんを乗せて、「__病院行って下さい」って頼んでね、行ってもらったんです。
重症の患者さんには誰か(看護師が)ついて行ってね。

中には、「この車大事にしてて、靴でも入らんようにしてる車や」って言われた人がいたんです。「そんなこと言わんと、大きい車やし、お願いできませんか」とお願いすると連れていってくれたんですよ。
その時は全然そんなん(怖く)感じなくって。乗せてってもらって、看護師向こうにほったらかされたら、歩いて帰って来ないかんのですけどね、その人はちゃんと送ってきてくれたんですよ。

<インタビューに答えたら2日後にトラックいっぱいのミルクが>

 産婦人科では、たくさんの方から「ミルクが欲しい」と言われた。最初は、1缶ずつあげてたんですが、足りなくなって、半分ずつにしてもらったりね。「母乳が出なくって、ミルクにかえたい、ミルクとお水ください」って方もおられましてね。

あくる日に、(マスコミに)インタビューされて、「何か(足りないものは)ありませんか」と言われたので、「赤ちゃんが飲むミルクの缶が欲しいです」と私が言うたらしいんです。
 そしたら、2日後にトラックいっぱいにミルクが来たんですよ。びっくりしましたけどね。2日間かけて、大阪のほうから来たんですよ。それで、すごく余って、結局他の病院へ持って行ってもらったんですけど、すごい影響力と思ったりして。

<避難所での勤務>

私たちは病院がつぶれて、患者さん全部送り出した後、外来の患者さんだけは無料で見てたんですよ。入院はできないんですけど、そうしましょということでね。でも、看護師は余るんですよ。
私たちは、公務員だから、被災された人のいる避難所に配置されたんです。
だけど、私たちの中には、家の焼けたものやら、家がつぶれたものも沢山いましてね、で、病院もつぶれてるということで、被災的な意識の中で、被災された方のケアをしないといけない。
やっぱり、看護職って専門職やなと思いました。みんな割り切って行きましたからね。

 私たちも避難所に行ったとき、トイレが使えないでしょ。水もないでしょ。
「公立病院の看護師やん。やからトイレの掃除せえ。」「水汲んで来い。」「食べるもん持って来い。」ってそんなん言われてね。かなり暴言も吐かれてね。でも、みんな傷ついているじゃないですか。それではアカンいうことでね。血圧計を病院から持ってきてもらって、体温計でとにかく健康チェックをしていこういうことになった。
1月の終わり頃になってくると、わたしたちが巡回で回るんを楽しみにして、頼りにしてくれるようになったんですよ。

 個人情報なのであまりできないけれど、避難所に行くと、65歳以上の人をチェックしたり、病気持っていらっしゃる人を調べていって、食事には特に気をつかいましたね。

<まだトリアージは確立していなかった>

震災なんか初めてやから、ちっちゃな怪我なんかもね手当てするんですよ。優先順位、トリアージとかいう言葉なんて、その頃はあったんですけど、まだ活用されてなくって、本当に重傷の人たちはまずこうする、中等度はこうする、軽傷はこうするという分別ができなかったんです。
その中で、こっち側が優先順位とかしてたんですけど。

 酸素と吸引が欲しかったんですよ。口の中に土砂がいっぱい入って、亡くなって来られてるでしょ。「口の中のあれを取ってやって欲しい」って言うんですよ。「気管内挿管して助けてやってほしい」とかね。
医療はどんどん進んでるような時代でしょ。それで、震災にあって、助からないっていうのはつらいことでした。

<報道取材との葛藤>

 患者さんの家族に「助けてほしい」と言われたこともありましたね。隣の人の処置に行こうとすると、ご家族が手を持って離さないんですよ。「行かないでほしい。」「ここにおってほしい。」って言われるんですよね。
でね、そういうところまで報道は写すんですよね。その残酷さってゆうかね。
でも1年経って、その写真見たら、ほんとにリアルに出てますわ。なんか伝わってますわ。苦しさとかね。その時はホントに理不尽やと思いましたけどね。

報道の中ではね、1つ喧嘩したのはね、いい写真を撮れたから言うて、ガスが漏れてるところでたばこ吸って、一服して、「東京帰ろ」と言っていた人がいた。
そんなことやめてほしい。私たちの気持ちとか、避難してきた人の心を傷つけるようなね。暴動起こるかと思いましたよ。それくらいみんなすっごい辛かったですからね。

<医師も看護師も辛かった。命を助けるためになった職業ですから>

 野戦病院に化してしまったときにね、ものがなくって、助けられなくって。地獄みたいでしたね。あの光景は思い出しても辛い。

 この前、愛知県の方の看護学生が、災害看護を勉強するって来られたんですよ。その時に、6人くらい災害時の体験を話してくださいって言われたんですけどね。
みんな(話すの)嫌がるんですよ。辛いの思い出したくないって。もうやめてくださいって言う人もけっこういる。
でもね、これからの看護学生の人たちは、今後どんな災害にあうかもしれない。

 子どもさんたちの死もあった。家族のことが全くできず、家に帰ると、わが子が怯えたような感じになってたとか。お姑さんに「親をほってどこに行くんや」と言われたりね。行きたくても病院に来れなかった人とかね。なんか出遅れた、自分は役に立たなかった、ということで、落ち込んでPTSDになって。来た者は来た者で、現状を見てPTSDになって。

 先生方も辛かったと思います。医師も看護師も、人の命を助けるためになった職業ですからね。

<友人のありがたさ>

人ってこんなにありがたいのかと思いましたね。
いつも言うんですけど、災害ってモノとかそういうの持てなくってもね、目に見えない財産というかね、技術であったり、知ってる知識であったり、コミュニケーション能力であったり、それだと思うんです。自分に持ってる財産ってあるでしょ。大切ですよ。
それとね、やっぱり人脈ですよ。友達をいっぱい作っていると、助けに来てくれるんですよ。みんなね、病院のお友達の人たちが、電車を降りて、車で途中まで来て、それで、リュックサックを担いで持ってきてくれるんですよ。やっぱり、人って大事にしないといけないなと思いましたね。

 その後の災害で、こちら(神戸)からも救護班を出してますけれど、もっと行かなあかんと思いますね。日常でね、追われてなかなか行けないんですけどね。本当はね、阪神・淡路大震災の時にあれだけ来てもらったんやから、行かなあかんと思ってるんですけどね。

<私たちも辛くって、涙が出てきた>

 西市民病院はその後、1病棟だけ入院できるようにして、外来の診療はしてたんですけど、震災のときにPTSDになった人たちや、家族亡くした人が、苦しんで来られた。
やっぱり、私たちがケアしないといけないから、話聞いてね。でも、話聞いてると、私たちも辛くって、涙が出てきたりね。それだけのことしかできないんですよ。

 今、西市民病院にはリエゾンの看護師(精神介護についての専門知識を持った看護師)がいるんですけど、当時はいませんから。私たちが受けていくという感じでしたね。
ただ、あまりにも、受けるものが大きすぎて、耐えかねてきたという人たちもいましたね。

《取材日 2009年8月6日》


カメラマンの証言
病院関係者の証言
消防関係者の証言
入院患者の証言