報道写真

【写真】崩れた神戸市立西市民病院。ガレキの中で必死に行われる救出活動=1995年1月17日 午後5時
(C)読売新聞社

取材した人

大工さんに工具を借りた

西市民病院で救出にあたった、消防のレスキュー隊員にも話を伺いました。
現場で指揮をとった、元神戸市消防局(現在財団法人こうべ市民福祉振興協会) 野辺三郎さん (62歳、当時神戸市消防局警防部救助係長)。


この写真は神戸消防を写したもの。
実際の現場はガス漏れ(通常のガス漏れとちがう)の臭いがひどかった。渡り廊下にいたが、爆発する、やばいなぁと思った。いつ爆発しても仕方ない、腹をくくらなしゃあないと思っていた。

病院にガスを止めるように言ったが、誰も分からない。
ガスの元栓を閉めたという報告は聞いていないが、ある時を境におさまった。
現場に着いて、まだ生存者がいる、と思った。「大丈夫か」「誰かおるか」と声をかけると声がした。中は大丈夫や、半分くらい生きていると思った。

穴をあけるしかない。ベッドにたどり着くために、コンクリートの壁に穴を開けて削岩機で開けようとした。最初の壁が非常に頑丈で開きにくかった。
救助器具に削岩機があるが、これは使えなかった。重すぎて1人で持てず、水平方向には使用できなかった。

空気式のコンプレッサーではなく、大きくて重いもので、混合油エンジンを使用する削岩機だった。現場を知らない人が作ったものだと感じた。救助にかけつけた大工さんに工具を借りて、それで穴をあけた。何名か救出したあとに、腹ばいで入った。
《取材日 2009年11月6日》


取材風景

ベッドの手すりで助かった

神戸市兵庫消防署 予防査察係消防司令補 新免経由さん(61歳、当時神戸市消防局警防部救急救助課救助係)。

新:29人ほどおったんよ、取り残されたんが。本当は、はじめ100名と聞いて入ったねん。当日(17日)の11時50分くらいやったかな、当日の。あのとき、局におったから、そのとき「西市民病院が100名取り残されとう」ということが入って、現場に行ったんよ。現場行ったら、あと、名古屋とか、京都とかが全部来てくれたから、Rがね、救助隊が。12時半に、僕、西市民病院はいっとるねん。指揮でね。到着して、よう聞くと、29名しか取り残されてないなぁ、ということでね。12時半から救出まで、ごっつい時間がかかっとうねん。この間、探すのに。17時5分くらいからやっと(生き埋めになった人たちが)出てきだした、場所が分かって。

Q:写真が撮られたのもちょうど、17時くらいと聞きましたが。
新:そうやな。そのくらいかわからんな。

Q:ということは、ちょうど出され始めたころですね?
新:どこにおるやらわからへんなんだんや。潰れてしもとるから。探してもらって、17時過ぎくらいから、1人1人出てきだしたんや。で、最終的には23時30分に、真っ暗なったから一応帰ってくれ、ということで。1人だけ残して。というのは、1人は死亡してたんや、廊下に出ていた人が亡くなっとんや。ベッドに寝とった人はみな生きて救出してます。29名のうち28名だけ出して、そのままその日は終えたんですわ。飯も食うてないしな。みな、誰も食べてないから。
  それで、あくる日に京都のレスキュー隊がもっぺん探してくれとんねん。1人、亡くなった人を引っ張り出してくれとんねん。

取材風景
Q:翌日は、京都の隊だけだったんですね?
新:京都だけが粘ってくれて、してくれとった。京都は6人来てくれたからね。
  西市民病院に最終的に入ったのは、名古屋5名、京都6名、桑名3名、津山圏域(岡山)が5名が入った。で、神戸の隊は5人の隊が2つで10名。
名古屋消防と京都消防がヘリコプターでひよどり(北区)の消防学校に下りて、そこから来てくれた。桑名消防と岡山圏域消防は車走ってきてくれとるから、遅かった。夕方に到着した。神戸も車で走っとるから、遅かった。

Q:新免さんも、西市民病院に入られる前、神戸市役所の現場に行かれていたのですか?
新:(野辺さんと)西消防署で待ち合わせて、それで一緒に出てきたんよ。途中、西の方は、そないに被害はなかったんよ。出てきたら、神陵台(垂水)に来たり、ごっつい燃えたり、そこらじゅう倒れたりして、えらいことになって、結局僕、車置いたんが、舞子ビラ。あそこに車置いた。最終的にそこから歩いて、11時半くらいに、局に着いたんよ。2人でね。その後、市役所の2号館が潰れとるから、あそこに1人埋まっとる、エレベーターのところで唸り声が聞こえるから、野辺さんと一緒に上がってみたんよ。そしたら、確かに唸り声が聞こえたけど、どないもすることができなかった。コンクリートで、埋もれてしもとるから。それしよったら、なんや無線で、「市民病院が100名ほど取り残されとる、潰された。そこ行ってくれ」言うから、行ったんや。市役所は大阪の隊が来よるから、それに任せるから言うことで、西市民の方に行ったんや。で、12時半すぎに西市民に着いたんや。だいたい2こ1で動いてるから、同じなんや。

取材風景
Q:取り残された人は助かっていると思いましたか?
新:僕は、助かってるとかそういうことは全然思わなかった。生きとるとか、死んどるとかは思わなかった。とにかく1回、もぐってみなアカンなという感じ。看護婦さんたちに、「図面はないか」と聞いた。4階の部屋に行って、「これ、図面一緒か?」と聞いて、図面をもらったんよ。で、これにずっと書きよった、指揮するのをね。で、京都隊が、こっちから入ってくれるか言うて、もぐって行って、人を見つけた。1人引き出すのに。4時間ほどかかっとるな。1 人が出てくるまで。で、出てきだしたら、もうどんどん、どんどん分かるから。ベッドに寝とんやから、分かるから、これであと、引っ張り出してきた。で、その時分になったら、ここに、誰がおるということが分かったから、名前で。看護師さんがおって、調べてもろたから。それで、チェックしていって、あと、1人だけ出て来なんだんが、廊下で亡くなっとったんです。それは、もう諦めようということで。諦めようって、簡単に言うようやけど、当時は、それはもうしゃあないねん。そこらじゅう傷んどる(被害がある)んやから。で、引き上げたんよ。あくる日、京都隊がやってくれたからね。

Q:この現場で印象に残っていることはありますか?
新:1つの現場だったら、みんなでわーっとやれるけど、もうあっちも、こっちもやろ。もう必死なんよ。おなかがすいとるとも思わへんしね。こんなこと言うたらあれやけど。朝からご飯も食べてなかったけど。必死だったんちゃうかなぁ。思う余裕なかったんちゃうかなぁと思う。亡くなっとるって聞いとるから。
  まだ、この時分(写真が撮られた頃)は生きた人やったから良かったけどね。あくる日になったら、みんな亡くなった人やったから。
  極端に言うたらベッドがあって、ベッドの手すりがあるやん。それで助かっとるんやからね、みな。ベッドに寝とったから助かっとるんや。まあそういうこともありましたわ。とにかく揺れるから怖かったことは間違いない、余震で。もぐっとるんやもん。

Q:助け出された方は、高齢者の方が多かったんですか?
新:だいたい50以上の人が多かったけどね。

取材風景
Q:何かほかに気づいた点などありますか?
新:ガスのにおい。どこからガスのにおいしたか分からへんけど。病院か周囲か。確実ににおいはしてた。おそらく現場独特の。ちょっと西行ったら、燃えとるんやから。

Q:長田というと、火事の印象が強いですが、火事は西市民病院からも見えるくらいのところだったんですか?
新:見える、見える。煙は見えるし。ガスのにおいはしてたけど、そんなに恐れられてなかったね。余震のほうが怖かった。
この写真に写っているのは木村。彼に聞いてみたら、いいと思う。私と野辺さんは、指揮という立場で、少し違うから。

Q:この写真の人たちは、1つの隊の方かと思うんですが、お1人だけ、色の違う制服の方がいますが、この方は?
新:消防係の人やね。別の隊の人。ひょっとしたら、長田消防署の人かもしれない。
《取材日 2009年11月26日》


取材した人

生存救出の現場、印象深い

写真に写っている隊員(右手前)、神戸市兵庫消防署 消防第1係長 木村敏博さん(51歳、当時神戸市西消防署 第四方面専任救助隊長)にも伺うことができました。

Q:この現場に着いたのはいつくらいですか?
木:当時の野辺係長から指示があって動き始めました。お昼の12時回ってたと思うんですけど、詳しい時間は全然覚えてないです。なんせ、地震があって、相当、時間が経った後だったと思います。同じ日は同じ日です。1月17日のお昼過ぎだったと思います。
で、西市民病院がこうやって、坐屈しているということで、負傷者が多数発生しているので、入ってくれということで、ここに見えてるのが、4人ですけれども、おそらくこの中にも、隊員たぶんいると思います。5人で活動してたと思うんで。

Q:5人が1チームなんですね?
木:はい。5人1チームで、西消防署から、これも記憶が定かではないんですけど、10名、2チーム、5名×2チーム10名で西市民に入りました。ここの局面は5名1チームで対応してて、もう1チームは違う局面で対応をしてました。

Q:西市民病院に行かれる前は、他の救助活動などはされていましたか?
木:してないです。ここが、地震の最初に活動した現場でした。

Q:西消防署におられたわけですが、そこで震災の被害にはあわれたんですか?
木:西消防署自体は、まあまあ震災の被害はなかったです。ちょっと揺れを感じる程度で。西区は体感する地震の強さが、長田区とか東灘区比べたら全然違うかったと思います。やから被害も西の方はあまりなかったです。

Q:では、西市民病院のあたりへ行くまではそんなに大きな地震だとは思わなかったのではないですか?
木:そうですね。ま、地震の規模の全体像が、初めてわかったのは、その地震が発生して、マスコミがテレビで発表し出して、東側の空の方向見ると火災、長田区周辺の煙がもう、空の色が変わるくらいになっておったので、市街地では大きな災害が規模のことになってるんだなぁという風には感じましたね。

Q:長田の火災に行かれる消防署は、西消防署ではなかったんですか?
木:ないです。長田消防署の管内の火災に対応するのは、長田消防署と基本的には、その隣の兵庫消防署と西側の須磨消防署がほとんどですので、西消防署は行政区の並びからしたら、一番西の端ですので、基本的には長田の火災とか事故に対応する部隊ではないです。が、このときは、同時多発的に起こっていますので、特命を受けてここへ、この現場のこの局面で活動せよ、ということで。
Q:「すごく大きな災害だ」と感じたのはいつですか?
木:月並みやけども、こういう耐火構造のビルが、坐屈してる。風景が変わっている、あったはずのビルが倒れている、傾いている、煙も出ている、火事があたり一面に。戦争は経験してないけれども、ものすごい攻撃を受けた戦後の風景のような。この現場を終えて、違う現場、東灘の方へも行きましたし、長田区の南の方の高橋病院さんのあたりにも行きましたけど、どうしようもなかったなぁと思いましたね。なんか爆弾でも落ちたような風景だったと思います。

Q:病院の5階の部分がつぶれているので、死者も多いのではないかと思われたと思うんですが、やはり、「助けなければ」という気持ちは強くなりましたか?
木:そんな気持ちが、超越した。普段からも人命救助に関しては、ある程度意識してますから、助けるというのは当然なんですけれども。これほど、生存救助ができたのも、この現場がほとんどやったんです。他の現場へ行っても、状況の中で、出してきても、症状的には手遅れの状態の方がほとんどやったんですよ。生存して救出できた現場なので印象深いことは印象深いです。ただ、こんな状況の中で、生存されておったのは、非常に奇跡だったと思います。

Q:病院自体も倒壊するかもしれないという状況で、恐怖心とかはなかったですか?
木:全然なかったですね。当然、もっと潰れるかもわからへん。余震がきて、こう這いつくばって入って行くんですけど、なんかの拍子に、ガッと潰れるかも分からへんし、上には相当なものが乗っかってるから、でも、みんなそんなん全然、「そうなったらどないしよか?」ということよりも、中に生存している可能性があるということならば、入らざるをえない。ただただ、人命救助だけがやりたい、できることがやりたい。他にもう方法がないですもんね。これを重機で持ち上げてなんて言うのは、物理的には不可能だし、誰かが入って出して来なければ、自力では出てこない。リスクはありましたけど。普段だったら、これ以上落ちないように、ここにたとえば、相当な強度の枕木をかまして、落ちて来てもそれ以上下がらないようなこともするんですけど。そんなようなものは、現場にもないし、どの程度のものを挟めば、上から落ちて来ても大丈夫だという計算的な強度のことも不可能やし。
ある程度活動していく中で、自分たちの置かれている状況が見えたり、安全に対する意識がまた芽生えてくる時期があって、「これって倒れるんちゃうん?」「入って行ったときに、倒れたらどうするん?」っていう話なんですよね。「地震からある程度時間が経ってるんちゃうん?」「その人ってどの程度の確率で生きてるん?」ということを考えるようになった。
(ある現場で)「これ、クレーンでつって倒れないように固定しよう」という考え方をした。なんせ大きなクレーン持ってきてくれと。で、要請して、大きなクレーンが来ました。オペレーターに、「このビルを倒れないように、引っ張ってほしい」といったら、「無理です。このビルが倒れたら、それにくっついて、クレーンも倒れてしまう」、「クレーンで、つるとか、つらないとかそういう問題じゃない」と。そんなことすらね、冷静に考えたら、そりゃそうやろなぁと思うんやけど、ビルが倒れないようにクレーンでひっぱるなど無理やなって。

結果的には、倒れかかっているところに、紐を垂らしたんですよ。そこへマジックで印を入れて、それを黙視する隊員を1人配置させて、傾きが危険方向に動いているのを、黙視する隊員が確認したら、笛を吹くなり合図して、中に入っている隊員を出そうということで、余震による建物の変化を早くとらえて、早く脱出しようということで、中に入って行きました。最終的には、中の人は生存して救助することはできなかったけれども。ここでも、誰かが建物全体の様子を遠目で判断しながら活動せんと、僕らが乗ってる下かて坐屈してるわけだから、不確定要素がいっぱいあったんやね。でも、それ言い出したら、活動できひんから。そんな感じだったですね。

Q::レスキューは、危険な現場に行くのが常だと思いますが、この現場と通常の現場の大きな違い、印象に残っていることはどんな点ですか。
木:普段の現場は、ものすごい安全意識が高いです。でもこの時は、それを考えていたら、手も足も出ない。ある程度のリスクを隊員全員が、感覚的に受け入れてました。もし隊員が挟まれても、他の隊員で絶対助けるでっていうのもあるし。1人じゃないというのはありましたよね。チームで活動するメリットは、そこだったと思います。僕がもし、1人で、この人たちをなんとかしようなんて思ってたら、怖くて行けなかったと思う。

僕も立場的に、小隊長だったんですけど、4人の隊員をけがさせるわけにはいかなかった。だから、5人で1チームですよということは、僕があの時、地震の対応で一番最初から最後までやったことの1つです。あっちにも、こっちにも「助けて下さい」という人はいる。「救助隊の人ー、こっちもおるんや!」って言われて、「君、あっち行ってくれるか」「僕こっち行くから」というように、5人で手分けして散らばるということは最終的にはしなかったんです。チームで活動するから、できることであって、1人1人がバラバラになってしまうと、できないことが多かったと思う。僕らがバラバラになるということは、僕らじゃなくなってしまう部分なので、絶対チームで動くということ。特殊な装備も持ってるし、技術も持ってるんやけれども、それを使いこなすにも、チームでなければ。戦力が分散してしまうと、町歩いてる人と変わらないからね。

市民の方々にできなくて、特化された特殊な部隊にしかできない、装備、技術、隊員で構成されたものが活動する現場に役割分担することが大切だと思っています。この局面には当然僕たちが。本来の活動意義のある現場だったなと思います。この写真、撮ってもらえて嬉しいな。

Q:この救出されている男性の方を引っ張り出してきたときのことを何か覚えていますか?
木:ぶっちゃけた話覚えてない。名前も覚えてないし。この方が一番最初やったかどうかはそれもあまり記憶にないですけど、何人かこのルートで上げたので。ベルトにロープをくくりつけて、これ以上落ちないように、白いロープが見えている、これでひっぱるんですけどね。安全な所にとりあえずあげたら、舟底型担架、長方形の担架ですが、そこに乗せて運びます。それは、下に引きずっても大丈夫なんで。普通の担架は下に引きずれませんよね。それは、引きずったりできる。ちょっとおわん形になっているので、患者さんが担架から落ちたりすることもなくて、患者さんにも非常に安全で我々も運びやすい担架。特に、山岳救助関連でよく使われる担架なんですけど。

Q::その担架に乗せてお医者さんたちへ引き渡したんですか?
木:そうです。どこに搬送したかあまり記憶にない。僕1回救急車要請したけど、救急車なんて呼んでも来へん状況やから。
  引っ張り出して、ある程度安全なところまで行ったら、看護師さんにあとは引き継いだと思うんですよ。僕らは、出したら、次の方というイメージですね。

Q::「市民防災力」の話ですが、どんなことを市民はできると思いますか?
木:震災後に、防災福祉コミュニティ、市民の力ということで育成してきました。15年経って、ある程度育成段階から、もう少し発展的に自立していく段階に来てると思うんですけど、なかなか。防災福祉コミュニティの組織全体がもともと、現役を引退されて、時間があってという方が多いので、地域のある程度の役職の方が会長さんになられたり、というように、組織全体が高齢化しています。その中で、なかなか自立しにくいんですけど。
防災福祉コミュニティの保有する機材には、バールやジャッキなどもあります。簡単な機材で出来るものに関しては、僕らでなくて、地域の力でやってもらいたい。そいう意味あいの役割があるかなあと思います。僕らが活動したように、市民の方々にも、1つのグループとして、何かできたらいいなと。たとえば、トラック持ってる方が、中にいらっしゃったら、トラックを活用するとか。自営業で、ガソリンスタンドされてる方だったら、スタンドにはジャッキもあるだろうし。大工さんがおるよとか。そういうことが救助につながっていったらええかなぁと。
《取材日 2009年12月8日》


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