報道写真

【写真】崩れた神戸市立西市民病院。ガレキの中で必死に行われる救出活動=1995年1月17日 午後5時
(C)読売新聞社

取材した人
【写真】取材に応じてくださった島村さんは「自分のおった病院が潰れるなんて、事実として受け止められない。理解の範囲をこえていた」と振り返ります。地震のあと、非現実的なシーンの夢をよく見るようになったといいます。(2010年11月28日 神戸市長田区一番町の西市民病院前で)

廃墟からの脱出

 震災当日、神戸市立西市民病院に入院していた、当時大学2年生だった島村隆之さん(35歳、現在メーカー勤務)の手記が、震災調べ学習プロジェクトに提供されました。そこには、病院内の生々しい様子が描かれています。
 島村さんの実家は神戸市兵庫区。自然気胸で1994年12月30日、神戸市立西市民病院に入院。年末、年始、成人式を病院で過ごし、1月16日の退院予定でしたが、インフルエンザにかかって1日退院が延びて、17日朝、病院4階の病室で被災しました。
 この手記は、島村さんの所属していた数理科学系サークル「湧源(ゆうげん)クラブ」の会報『Petit Puits(プチ・ピュイ)』(月刊)の、70号(1995年2月26日発行)に掲載されたものです。
 同クラブの関係者が、コピーを提供してくださいました。
 (文中の表現は原則として原文のままです。)


------------------------------
1月16日(月)
 本当はこの日に退院する予定だった。しかし、1月10日ごろにインフルエンザにかかってしまい退院の日を翌日に見送られてしまっていた。
 晩の7時ぐらいにS君が見舞いにきてくれた。「神戸を観光に来たかったから、異人館によってきた」と彼は言っていたが、彼と「神戸ってロマンチックな所とよくいわれているけど、案外ぼろい木造建築が多いやろ」などと話していた。
 彼が帰った後、震度1の地震があった。「ふーん、神戸でもたまには地震がくるんだねえ」などと病室(468号室)で仲良くなったおっちゃん達と話していた。糖尿で入院していたNさんという人は「僕は、関東への転勤を地震が多いからといって断ったんですよ」と話していた。
 9時になり消灯の時間になったが、明日退院だということで夜遅く(といっても12時くらい)まで、入院したときに買ってもらった携帯ラジオをずっと聞いていた。

1月17日(火)
 午前5時46分。「激しい」などという形容詞ではとても表現できないくらいの揺れを感じた。眠いのも加わって、最初はいったい何が起きたかさっぱりわからなかった。なんだか、ジェットコースターにでも乗っている感触だった。震度3までしか経験していなかった僕にとって、この揺れが地震であることを認識するのに約10秒の時間を要した。
 「ウワァー」僕は叫んだ。約1分ほどゆれた間、僕のできた唯一の行為である。どこかに隠れることも頭を抱えることも布団に潜ることも含めて、叫ぶ以外のことは何一つできなかった。
 よく「逃げ道を確保しろ」とか「ガスを切れ」とか言われるが、はっきり言ってこんだけゆれたら絶対にできない。

 揺れがおさまってふと我に返ると、水がザーザー降ってくるのと、プシューという(おそらく酸素)ガスの漏れている音に気がついた。「ここにいると危ない」ということをすぐさま感じた。おそらくそれは、思考回路によるものではなく、動物本能によるものだろう。
 「ここを出ましょう」と病室のおっちゃん達に話しかけ、みんなで出ることにした。まず、ラジオだけを散乱した病室から探しだし、すぐにスイッチをつけた。ここで、「震度6」の情報を得た。しかし、次に何が起きるかわからないので、財布や免許証やキャッシュカードや勉強道具などその他の物すべて残して、病室から出た。

 病室から出て、非常灯に映しだされた光景は、まさに廃墟だった。
 天井があちこちで落ちて、廊下はがれきの山で、煙がもうもうとたっている。それに気味の悪いサイレンが鳴り響いており、どこかで悲鳴が聞こえる。
 「こんなところで死んでたまるか」
 自分にそう言い聞かせた。

 廊下で看護婦さんに出会った。自分の命をかえりみずに病室を一つ一つまわって、患者の無事を確認しているようだった。
 「とりあえず1階におりてください」といわれたので、みんなでおりようとしたが階段が壊れていておりられない。4つの階段のうち3つがやられてしまっていた。
 途中のトイレで、お爺さんが気を失って倒れていた。残念ながらそのお爺さんを助ける精神的余裕もなく、心を痛めながらも見過ごして避難した。
 1階に下りて病院の庭に一度出ると、悪夢のような光景が浮かび上がった。自分のいた4階のすぐ上の5階が、完全につぶれているのである。
 寒いのでまたなかに戻ってほっと一息入れた後、あることに気がついた。
 「寝たきりで動けない人がいる」
 そう思った瞬間に、僕は4階に戻った。その予想は的中し、数多くの寝たきりの人を抱えて看護婦さんたちは困り果てていた。4階は内科病棟で、10人くらいの寝たきりの人がいた。完全にまいってしまっていた看護婦さんのひとりが僕にこういった。
 「こんなときどうしたらいいんよ」
 残念ながら、僕だってどうしたらいいかわからない。

 とりあえず患者さんを降ろすことになったが、当然人が足りないのでもう一度1階に下りて、救助人員を求めた。しかし、病院は本来健康でない人がいるところなので、なかなか見つからなかった。
 やっとのことで数名見つけだし、寝たきりの人を車椅子に乗せて次々に4階から1階まで降ろした。いくら20歳の人間でも、20日間ほとんどベッドの上にいた僕にとってはきつかった。
 患者を降ろしているとき、心配して見にきた母親と姉に出会った。患者の救助をしている患者の息子の姿に、あっけにとられた様子だった。「大丈夫だから」といって家に帰らせた。
 その後すぐに、
 「5階のナースステーション応答してください!」
 という、悲痛な放送が入った。しかし、反応はない。いったん5階を見にいったが、ドアが完全にひんまがっており、開かない。どうしようもないので、あきらめて4階の人の救助に専念することにした。

 4階の患者をすべて降ろしおわった後、看護婦さんたちもやっと一息つけた様子だった。でも、看護婦さんたちは完全に憔悴しきっており、唇の色が肌色になっていた。

 看護婦さんの一人が泣きながらこう言った。
 「これから先、この病院どうしたらいいの」
 精神的余裕は僕にもなく(大体こんな質問患者にされても困る)、「元気出してくださいよ」というありきたりな言葉をかけるのがせいぜいだった。

 1階に戻ると、だいぶん混んでいた。もともと、すべての患者を1階の降ろしたうえに、外からの外来が頻繁にきだしたのである。医療面での救助ができない僕は、兵庫区の実家に歩いて帰ることにした。 

 病院を出ると、まさに地獄のような風景が目に飛び込んできた。
 まともに立っている電柱など一本もなく、すべて45度くらい傾いている。まったく被害を受けていない建物はひとつもない。ヒビなんてかわいいもので、木造建築の大半はがれきと化している。道路もヒビや割れ目だらけで、向こうに見える大開通りなんか爆撃を受けたように、2メートルくらい陥没している。
 たくさんのけが人がおんぶされながら廃墟と化した西市民病院に向かっていた。この病院は、長田区、兵庫区において唯一の総合病院で、確かに設備も整っていたし医者も揃っていた。しかしそれは1月16日までの話である。

 僕は、戦争は経験したことはないが、映画とかで見た空襲の風景とそっくりだった。
 その時、ピンとひらめいた。
 「水と食料がやばい」
 すぐさま近くのコンビニに入った。するとそのコンビニは暴動状態で、100人以上の人が詰め掛けて、あらゆる品を金も払わずひったくっていた。店長らしき人はボーッとそれを眺めているだけだった。

 途中にある片道5車線の国道2号線は停電のため信号がなかった。そのくせ、にげまどう車が猛スピードで走っている。なかなか渡れず、渡るのに10分ぐらいかかった。渡っているその時、
 「バチバチバチッ」
 と物凄い音とともに火花がとんだ。切れた電線に車が触れたのだった。幸いなんともなかったようだが、この音は、僕の鼓膜に焼き付いてしばらく離れなかった。
 家の近所にさしかかったとき、刺激臭が鼻を突いた。アンモニアの臭いだ。どこかの工場がやられたらしい。気が動転しており、アンモニアが爆発するものと勘違いして走って逃げた。受験勉強とは、こうも役に立たないものなのか。

 家に着いた。この時点で、まだ午前8時ぐらいだった。家は高層新築マンションだったので、さすがに他の家よりかはやられていなかったが、それでもヒビが入りまくっており、ドアのフレームが歪んでちゃんと閉まらない。ドアは通りがかりの男の人にあけてもらったらしい。

 奇跡的に、この時点で電気が通っていた。家の中はぐちゃぐちゃだった。
 テレビの内容もだんだん事態の深刻さを映すようになってきた。阪神高速が倒れた映像とか、三宮のビルが倒れている様子とか。
 みんなが心配するかもしれない、と思って京都の友人に電話をかけたがいなかった。神戸ではこの非常事態なのに、京都では平然と学校をやっていることがなんだか信じられなかった。もっとかけようかと思ったが、だんだんつながりにくくなり、最後には全然つながらなくなってしまった。
 20日ぶりに動き回ったので、疲れが襲ってきた。まだまだこれから動かねばならないので、とりあえず少し休むことにした。

 昼ごろの余震で目が覚めた。家にあまり食料のストックがなかったので、再度別のコンビニに物を買いにいった。そのコンビニは暴動こそ起きていなかったものの、長蛇の列だった。弁当とか、ミネラルウォーターとかは速攻で売り切れていた。飲み物は、すっきりするものから売り切れていった。水の次はお茶、その次は紅茶、そしてスポーツドリンク、そして果汁飲料。乳飲料や炭酸飲料は最後まで残っていた。とりあえず、電気だけで食べられる冷凍食とか、腹の足しになるポテトチップスとか、調理のいらない缶詰とかがなんとか確保できた。
 家に帰って、テレビをつけると「西市民病院」がでかでかと放映されていた。しかしこの時点で、午後2時。この情報社会において、なぜこんなに情報が伝わるのが遅いのかと憤りを感じずにはいられなかった。それと同時に、「長田区での火事」が放映されていた。
 「長田区の親戚のおばさんの家がやばい」
 と思って電話したが、当然のごとく通じない。仕方がないので、自転車に乗って見に行くことにした。

 親戚のおばさんの家にいく途中、西市民病院に再び寄った。黙って出てきたので、一応家に帰ったことを伝えるためだ。西市民病院はバッテリーがきれたのか、非常灯すらついておらず、その上マスコミと機動隊と入院患者と外来患者が入り混じり完全にパニック状態にあった。医者は、カメラの照明で患者を診ている状態だった。
 なんとか、看護婦さんと主治医さんにあうことができた(内科の先生にもかかわらず、骨折を診ていた)。
 看護婦さんが、
 「今日は、島村君大活躍だったのよ」
 というと、主治医さんに
 「あほ、君は活躍したらあかんのや。安静にしとらんと再発するぞ」
 と怒られてしまった。が、顔は笑っていた。
 「とりあえず、もううちでは面倒見れないから、『西市民病院を追い出された』といって、他でみてもらってくれ。しばらくしたら連絡してな。」
 僕は今までの分を含めてお礼をいい、いても邪魔だけなので病院を後にしておばさんの家へと向かった。

 おばさんの家の近所に近付くにつれ、家屋の崩壊が激しくなっていった。おばさんの家も、戦後間もなくたてられた木造建築である。そこの角を曲がればおばさんの家が見えるところで、立ち止まって深呼吸をした。何だか、入試の合格発表を見るような感じだった。思い切ってその角を曲がると、ヒビこそ入っているもののおばさんの家は立っていた。
 ほっと胸を撫で下ろし、おばさんの家に訪れた。すると、おばさんはとてもびっくりした様子で「大丈夫だったかい」と話し掛けてきた。テレビで病院の様子をみてとても心配していたようだった。

 おばさんの無事を確認した後、その近くにある母校の長田高校を見に行った。幸い、裏の崖が崩れたものの去年の8月にたった新校舎はひびひとつはいっていなかった。安心して久しぶりに通学路を帰っていたら、だんだん熱くなってきた。火事である。その火事というのが、テレビで散々流れた「菅原商店街」(焼け焦げたアーケードだけが残った商店街)の近辺である。しかし消防車は1台もきていなかった。3年間見続けてきたその風景が火事のさなかにあるのを見て、何だかやりきれない感じになってしまった。

 うちに帰ると母親が「避難所に逃げよう」と言いだした。というのは、うちの母親がどこかで「このマンションも、震度5の地震がもう一度きたら崩れる」ということを聞いてきたのだった。当時の心理も手伝って、結局僕も不安になって避難所にいくことにした。避難所に行く途中、空を見上げると夜なのに空が赤い。火事のせいである。避難所についたら、人があふれかえっていて全然スペースがない。やっとのことでひとり布団1枚程度のスペースを確保した。
 ずっと携帯ラジオを聞いて情報収集にあたっていた。しかし、聞けば聞くほど明日への望みを失いたくなるような情報ばかり。何人死んだとか、どこが崩れたとか、救援物資が届かないだとか、何もかも復旧の見込みがまったく立たないとか。これから先やっていけるのだろうかと思うと本当にストレスがたまった。夜10時ごろ、ようやくどこからかおにぎりが届いた。しかし、子供と老人の分だけで、僕らの分はなかった。

 うちの家族はここからの脱出を決意した。なんとかして、大阪のおばあちゃん家へ逃げようと思ったので、ラジオで交通情報の情報収集にあたった。しかしこれもまた、絶望的な情報ばかり。もともと神戸は山と海に挟まれて、東西にしか逃げ道がない。うちは車を持っていないし、タクシーも走っていない。車があったとしても国道2号線は大渋滞で、神戸から大阪まで12時間かかるらしい。鉄道もようやく尼崎まで通った程度だった。大阪まで電車で20分で行けたことが本当に信じられなかった。と同時に、今まで文明に甘えた生活をしていた自分に少し反省をした。
 あきらめて寝ようと思ったが、目を閉じると病院の光景が鮮明に浮かんできて、それに明日も保障されない絶望感からくるストレスのせいで胃が痛く、その上頻繁に余震が来て、とてもじゃないけど寝れる状態ではなかった。もう肉体的にも精神的にもまいってしまった。

1月18日(水)
午前6時くらいにラジオを再びつけたら、朗報が入ってきた。西宮北口まで、電車が来たのである。たった1日の避難所生活に疲れ果てたうちの家族は、自転車で西宮まで行くことを決意した。
 ちょうどうまい具合に、うちは一人1台自転車をもっていたのだった。「絶対安静」といわれていたことなど、頭の片隅にすらなかった。

 三宮の辺りはすさまじかった。昔の華やかさなどどこにもなく、ただのがれきの山だった。灘の辺りなどでは、線路の高架があちこちで落ちていた。そして、東灘に入ったところでLPGガス漏れの避難勧告に出くわしたが、警官を無視して北に向かわず、東に向かった。ずっと、国道2号線沿いを走っていたが、車は1時間に1メートルも動いている気配はなかった。
 3時間ほどして、ようやく西宮北口についた。自転車を止めようと思ったその時、
 「自転車を貸していただけませんか」
 と40歳くらいの男の人が話し掛けてきた。話しを聞けば、横浜から兵庫区の両親を見にきたのだが、交通手段がなくて困っているとのこと。かわいそうなので貸すことにした。ちなみにこの人から2週間後に手紙が来て、1万円とともに便箋6枚にも及ぶお礼の手紙をいただいた。自転車も返ってきた。

 電車に乗って見えるその光景が、見る見るうちに地獄から天国へと変わっていった。
 尼崎の辺りではほとんどの店が開いており、十三ではなんとパチンコ屋が開いていた。20分ほどで梅田に着いた。降りたそこはもう別天地で、喫茶店はやってるし、タクシーは走っている。この差はいったい何だろうかと思ってしまった。

 おばあちゃんの家についたとたん、全身に脱力感が襲った。何もかも無気力になってしまった。ただただ家の近所が映る震災のテレビ番組をボーッと見るだけであった。そして夜になるとなぜか、精神が不安定になり、胃が痛くなった。そして、目を閉じると病院の光景が浮かんでくる。一人では怖くて眠れない。
 こんな状態が約1週間続いた。

1月23日(月)
 久しぶりに神戸にいったん戻ることにした。
 途中で、「日本○○党」という右翼が救援物資を配っていた。僕らはカップラーメンをいただき、丸刈りの怖いにいちゃんから「頑張ってください」と励ましの声まで頂いた。縦割り行政と、横のつながりが強い右翼との差は歴然だった。
 久々に、西市民病院にも行ってきた。1階だけ診察しており、2階以上は立ち入り禁止になっていた。主治医さんには会えたが、看護婦さんたちには会えなかった。
 1週間たったから神戸もだいぶ変わったかなと思ったが、全くといっていいほど変わっていなかった。がれきはそのまんまで、町中の時計のほとんどがまだ5時46分をさしたままだった。

 神戸の復興には21世紀までかかると言われている。
 まだまだ道のりは、遠い。

《手記 1995年2月26日》




カメラマンの証言
病院関係者の証言
消防関係者の証言
入院患者の証言