報道写真

【写真】屋上部分が壊れた阪急三宮駅。阪急電鉄ではこのほか伊丹駅が半壊、西宮北口駅で国道171号の跨線橋が落下するなどの被害が出た=1995年1月17日神戸市中央区
(C)朝日新聞社

チーム写真

駅では何が起きていたのか

大都市の神戸の中心部で、駅のビルが壊れていることに驚きました。震災直後の駅では何が起きていたのか。復興や復旧が、どのように行われたのか知りたくなりました。【静岡県森中学校チーム】

撮影者は不詳

朝日新聞社に確認してもらったのですが、地震当日は複数のヘリが飛んでいたため、どのカメラマンがこの写真を撮影したかの記録がないというのです。撮影者不詳の写真でした。
《取材日 2010年2月 調べ学習事務局が電話取材》

取材風景

足の確保が使命だったが

阪急電鉄三宮駅の藤平光史総括駅長と草野俊雄駅長が、私たちの取材に応じてくださいました。

Q.地震があったときどんな様子でしたか?
A.草野駅長=発生当時は西宮北口駅にいた。電話は不通になり、周りの人たちの安否すら把握できなかった。
 藤平駅長=家にいたが、家の中もひどい状態だった。地震発生から10分くらい経過したら会社から連絡あった。車で家を出発して西宮北口に向かった。午前6時に出発して、到着したのは午後2時だった。線路筐体、列車の脱線状況や建物の倒壊状態を、行く途中、自分の目で調べながら駅に向かったことを覚えている。
 その間も家のことが心配だったけど、私たちの職業は「人の足を確保する」のが使命。つまり人が動き出したら物が動く。だから、家の被害を心配しながらも、足は自然と職場に向かっていた。

Q.地震が起きた時に、三宮の駅ビルにはどのくらいの被害があったんですか?
A.草野駅長=6時前だったので、お客様の数は少なかった。しかし、駅ビルが倒壊し、スキーの団体バスで帰ってこられたお客様お一人が、倒壊した建物の下敷きになり、亡くなられた。 また、始発から3本目ぐらいの電車が、駅を出たところで脱線した。お客さはあまり乗車されていなかったので、被害は最小限だった。

Q.今の三宮駅舎に当時の痕跡を残すものはありますか?
A.草野駅長=意図的に保存しているものもなく、現存しているものはない。

《取材日 2009年4月14日》

三宮のランドマークだったビル

阪神・淡路大震災は(中略)当社の鉄道施設およびその他の事業施設にも甚大な被害をもたらした。当社では地震発生を受けて、午前9時30分、本社に各部門が結集して「兵庫県南部地震対策本部」を設置、まず状況把握に全力を挙げることになった。
駅舎で最大の被害を受けたのは、伊丹駅である。(中略)また三宮駅も大きな損傷を受け、神戸阪急ビル東館は上層階が損壊した。≪阪急阪神ホールディングス「100年のあゆみ」部門史 2008年3月31日発行≫

三宮駅(神戸阪急ビル)は1936年(昭和11年)4月、上筒井から高架で線路が延伸されて「神戸駅」として開業。屋上の塔や電車の出入りのアーチが独特のデザインで、戦前戦後を通じて三宮のランドマークでした。地上4階、地下1階建てで、阪急百貨店三宮店や映画館が入居していましたが、被災して閉鎖。跡地に地上3階建ての暫定ビルが建てられ、1995年12月からスーパーや映画館などが営業を再開しました。(新聞データベースから要約)

取材風景
森中学の取材を受けて、神戸大発達科学部チームは、どうしても震災当時の駅員の方に話を聞きたくなりました。そして、当時の阪急三宮駅勤務のAさんにインタビューを申し込みました。新聞のデータベースからお名前が判明し、電話帳で一軒一軒電話をかけて、連絡先がわかったのです。
取材した人

駅の前で亡くなった人が

当時、阪急電鉄の三宮駅に勤務していたAさん(64)に、現在の阪急三宮駅を案内していただきながらインタビューしました。

Q.震災前の駅はどんな様子でしたか?
Aさん コンコースが今の2倍程の広さがあり、待ち合わせ場所によく使われていたんです。阪急百貨店と阪急交通社があるだけで、売店などがなく、天井も高く、広かったですわ。

Q.被災直後の駅は、どんな状況でしたか?
Aさん 東側(高いビルの部分)は、ぐしゃーっと崩れてて、西側(ホーム高架部分)はそうでもなかった。ホームは、アーチ型で造られているので、大丈夫だったんです。ホームの時計が、5時46分ぴったりで止まっていたのを覚えているねぇ。
阪急三宮駅西口から、西に100mくらいいったところに、JRと阪急の高架が1mの幅で並走するところがあり、その高架の壁に、ぶつかった跡がありました。

Q.駅ビルで亡くなった人がいらしたんですね。
Aさん 2人亡くなったんですわ。一人はスキー客の女性。たぶん大学生。もう一人はホームレスの方やったね。行きか帰りかはわからないが、スキー客がいて、駅ビルの北側がどしゃーと崩れて、一人は逃げたけど、一人は亡くなってしもて。その後のことは、警察に全て任せたし、バス会社のほうのことだったので、お気の毒やなあって。ちょうど1年後にスキー客の女性の親御さんが、お参りにきていたわ。

取材した人

焼夷弾の跡が残る戦前からの西側駅舎はいまも使用

Q.取り壊された旧駅舎ビルのなごりはないのでしょうか。
Aさん コンコースにあったシャンデリア(1mくらい)と避雷針(30cmくらい)ともう一つ何かの3点を、ビルを壊した時にとっておいたんやけど。駅内の倉庫に置いてたわ。(西側駅舎のホームの上の)戦争時の焼夷弾の跡がある天井は、震災前も現在も変わらずにある。

Q.駅には愛着があるんですね。
Aさん 阪急三宮駅には並ならぬ思いがあるねん。小さい頃からよく来ててん。高校時代も、三宮来てたから。だから、(震災の次の日の午後4時ごろ、初めて駅にたどり着いて見たとき)わぁーっと思った。うわぁーどうしようと、脱力感を感じた。

Q.駅がつぶれて、そのあとどんな仕事をしていましか?
Aさん 電車が止まっていたので、仕事がなくなってもた。代替輸送のバス乗り場で、係員として、働くことになってん。仕事があるのが、嬉しかったね。 6月12日まで、バス乗り場で働いたけど、お客さんは、意外と怒ってはいなかった。協力してくれたお客さんには、涙が出る想いだったわ。

Q.復興していく中で、なにを思いましたか?
Aさん 王子公園駅−三宮駅で、電車が動き出したときは、鉄道マンとして嬉しかったね。

Q.震災を体験して思ったことは?
Aさん 経験した人、見た人しかわからない。地震の体験した人しかわからへん。
でも、だんだん(体験したことが)体から抜けていくような感じがする。

《取材日 2009年8月7日》