報道写真

【写真】震災後初登校する女子高生たち=1995年2月1日、神戸市長田区若松町で
(C)毎日新聞社

チーム写真

どのように授業は再開されたのか

まだ瓦礫の山が多い状況で、どのようにして授業は再開されたのだろうか。学校に被害はなかったのか。なぜ、女子生徒たちは微笑んでいるのだろうか。制服を手がかりに調べ始めました。【神戸大学発達科学部チーム】

カメラマン

生活の一歩、ニュースになる

「サンデー毎日」を編集している毎日新聞東京本社に尋ねると、同社出版写真部の高橋勝視カメラマン(現・出版企画室)の撮影と判明。高橋さんにアポを取って、写真のコピーをFAXし、電話取材を行ったところ、撮影場所は鷹取商店街の近くで、撮影した高校生は神戸野田高校(長田区海運町)の生徒であるとわかりました。

Q. 撮影現場にどのようにたどり着きましたか。 高橋 震災当日の1月17日に大阪に行き、22、23日ごろに鷹取商店街近くへ行った。長田区は火災があったところであるため。震災から立ち直っていく様子は、他のカメラマンの原稿から分かっていたが、2月1日が学校再開の日とは知らず現地へ行った。 Q. 東京から現地に着いたとき、どのように感じましたか。 高橋 大阪と神戸では被害の様子は全く違う。被災の状況によって温度差があると感じた。鷹取商店街の付近は火災があったため瓦礫だったが、地震によって潰れたのか、後の火災によって崩れたのかは分からなかった。このような状況から、どのように立ち直っていくのか、と思った。 Q. どのような思いで、取材していましたか。 高橋 新聞やテレビなど速報性のあるメディアと雑誌では役割・機能が違う。この先どう立ち直っていくのか、普通の生活への第一歩という点をテーマとしていた。 Q. 登校の様子をなぜ撮影しようと思いましたか。 高橋 高速道路や鉄道など、公のものは比較的早く立ち直っていくが、一方で個人の生活の立ち直りには差があると思っていた。写真左側には焼け跡が残っている中、制服を着た生徒が登校しているという様子は、ニュースになると思ったので撮った。
《取材日 2009年4月17日、6月1日、横浜緑ヶ丘高校が8月2日に面接取材》

取材風景

酒屋の角から撮ったのでは


鷹取商店街振興組合の石井弘利さん(石井自転車商会経営)からは、写真の内容に関する有力な情報を得ることできなかったが、罹災で神戸市民の人間性をみたという生々しい話や、震災を通して新潟県山古志村、石川県輪島市など、全国各地でつながりができたことなど、貴重なお話を伺った。
 また石井さんより、写真の背景からすると。鷹取商店街にある酒屋の角からの撮影ではないかとの情報を得る。取材後、写真撮影が行われたと思われる地点へ行き、撮影地点を特定した。

《取材日 2009年6月15日》

取材した人

制服から高校を特定

神戸野田高校を訪ね、池田鈴美理事長(75、写真)、加藤雅丈教頭(59)に話を聞きました。 生徒が登校をはじめたのは、確かに2月1日であり、授業は2月8日から再開したことが分かりました。理事長に写真の生徒について尋ねたところ、神戸野田高校の生徒に間違いないということでした。平成13年に新しい制服になるまでこのミラ・ショーンのデザインの制服だったといいます。右端に写っている女子生徒は震災当時、須磨区に住んでいたT先生の長女であることが分かり、彼女と連絡を取ることができれば、全員の名前がわかる可能性がでてきました。
《取材日 2009年6月24日》

取材風景

このあと教室で、悲しい知らせが待っていた

写真右端の、根木(旧姓高木)絵里さん(32)と連絡が取れました。ご主人の根木俊典さん(30)とともに、三宮の喫茶店で取材に応じてくださいました。 根木さんは当時須磨に住んでいました。写真に写っているのは、左から松山由香さん、米重恵子さん、根木さんで、中学時代からの友人。ふだんから3人で一緒に登校していたといいます。

Q.表情を見ていると安堵しているように見えますが?
A.そうですね、この時はまだ…。私の住んでいた所はそんなに被害はひどかったわけじゃないので。
Q.お友達もそうでしたか?
A.そうですね。家が近所で、被害はひどくなかった。
Q.たまたまこの写真が安堵の表情だったということですか?
A.いや、まだこの時はわからなくて、(教室に)先生が入ってきて急に泣き出して、「実は亡くなったの」って。
Q.じゃあこの時点でクラスメートの安否は…。
A:もうぜんぜん。電話も通じないし。何回かかけて、何十回に1回つながるみたいな程度で。
Q.そのころは携帯電話は?
A.ポケベル。でも、結局ポケベルするにも電話がいりますしね。

Q.当時の(写真の)街の様子はどうだったか?
A.いや、もう、どこも潰れてるって感じで。まず、その、地震の当日に板宿に住んでいるおじいちゃんと長田の大橋に住んでいるおばさんの安否を確かめにいかないといけないって、親戚の人に車を出してもらったんですけど、まだ直後で新長田も燃えている状態で、横を通っただけでまだ熱かったりして。おばさんの所も、2階建てのアパートだったんですけど、潰れて、おばさんも生き埋めの状態になって。しばらくして2階の人が助けてくださって。板宿のおじいちゃんのところはそんなに言うほどではなかった。新長田が一番ひどかったですね。

Q.特に現場付近は火災がひどく、燃え尽きているというような…。
A.そうです。もう、映画でしかみたことない、「はだしのゲン」ってありますよね、あのような状態で。戦後やったらこんな感じなんかな、みたいな。もう言葉が出てこないって感じで。私、テレビを見るまでは、その、地震直後は家で、こんなにひどいとは思わなくて口にものを入れながら「怖かったね」って、明るく喋っていたんですけど、やっとテレビがついて、見てから言葉が出てこなかった。ここまでひどいとは思わなかった。
 (須磨区の)私の家の周りは大した影響もなくて。私も、テレビが落ちて来たんですけど、なんとか大丈夫で。テレビがつくまでは(状況は)わからなかったですね。ここまでひどいとは。いつもの地震の「ちょっと凄い版」みたいな感じで思っていたんですね、軽く。テレビを観たらあんなことになってて、亡くなった方もおられて…。

取材風景
【写真】毎日新聞高橋カメラマンの撮影地点から、南に約300m南にある神戸野田高校。3人は学校に着いてから、友の悲報を知る。街並の南側には大阪湾が広がる。(神戸市長田区海運町。2010年11月撮影)
Q.学校が通常通りになったのは?
A.何ヶ月も経ってからだったんじゃなかったかな。しばらく何時間だけ、午前中だけ、といった感じだったと思うんですけど。まともな授業もあんまりなかったと思うんですけど。あんまり私もよく覚えてない。
Q.しばらくは勉強どころではなかった?
A.やっぱり空気が重いとか。こんな時に、という…、ましてやクラスメートが亡くなってたんでね、やっぱり、こう…。クラスメートの亡くなった子が、(亡くなる)前の日の晩に書いた手紙が家から出てきたらしくて、それをみんなで見て…。女子高生って結構手紙の交換とかやるじゃないですか。そういうのが出てきたらしくて…。
Q.クラスの子と一緒に冥福を祈ったり、ということは?
A.あの時って、葬式とかってあったのかな?朝礼で「亡くなった方がいました、黙祷」みたいな感じだったと思うんですね。クラス全員で行って、というところまではいかなかったと思うんですけどね。あのときは、もう。バタバタしてるって言ったら変ですけど。自分のことで精一杯、じゃないですけど。
Q.どうやってこの状況をどう乗り越えていきましたか?
A.しばらく余震が続いてたから、それはそれで怖かったですけどね、まだ、しばらくは、大丈夫なんかな、と。自然に、日が経つにつれて、みんな普通になってくる、まあ普通といっても普通じゃないですけれど、学校が早く終わるから「じゃあ遊びに行くか」ってみんなで遊びに行って気分転換したり。みんなで喫茶店とか行って、おしゃべりして、気分転換、とか。

取材風景
【写真】夫の俊典さん(30)とともに、三宮の喫茶店で取材に応じてくださった、根木(旧姓高木)絵里さん。(2009年12月13日)
Q.震災の前後で一番変わったと思うことは?
A.家がきれいになった。
Q.新長田は古い住居が多かったということですか?
A.そうですね。この辺は特に。あと新長田は商店街の人が「復旧〜」とか、「がんばろうKOBE」とか、活気づけようとして、結構がんばっていたんじゃないかな。いまは「鉄人(28号)」ができて「鉄人、鉄人」ってなってますけど、震災直後は「がんばろう〜」とかそういう言葉をつけて、がんばってたんじゃないかな。オリックスも(ユニフォームに)付けてましたしね。どこ見てもそんな感じでしたね。

Q.地震で得たものは?
A.私もクラスメートが死んだじゃないですか、だから人とのつながり、というのは大事にしてほしい。友だちだっていつ死ぬかわからないわけじゃないですか。仲良くって言ったら変ですけど…。コミュニケーションをしておかないと、助け合いができないし、しておくべき。
日頃から友だちとつながっておく。家でひきこもってゲームしてる子とかいるじゃないですか。お互い知ってたら声もかけやすいじゃないですか。
私も親戚の人にお風呂いれてもらったりしましたし。
あと防災セット、着替えとか毛布とか、何年も経つにつれてほんま「今度でええわ」ってなるけど、ほんとに困った、あの時は。うちの母は用心深いから、ボストンバック2つくらい、もう完璧に作ってましたよ。最近はサボりがちや、言ってましたね。何年も経つと。
ペットも飼ってたらね、ペットは決まったものしか食べないから、それも用意せんとあかんね、言ってました。あと、年寄りも助けてあげてほしいね。いま一人のお年寄り、いっぱいいますからね。
《取材日 2009年12月13日》