報道写真

【写真】亡くなったMさんの冥福を祈る友人たち=1995年1月26日神戸市長田区W町
(C)毎日新聞社

チーム写真

友だちを亡くすこととは

亡くなった女性はどんな人だったのか。手を合わせているのはクラスメイトなのか。友だちを亡くすというのはどのような心境なのか。静かに考えさせられました。【つくば開成京都校チーム】

2009年東遊園地
【写真】竹灯篭に火をともして祈る人々。(2009年1月17日午前6時すぎ 神戸市中央区加納町の東遊園地で)

若松町10丁目ではないか

2009年1月17日の朝、神戸の東遊園地で「1.17のつどい」に参加し、取材しました。 死亡者の記録から「長田区若松町で亡くなった女性は26人いる」、「上垣美紀さんは17歳」、「亡くなった場所は若松町10丁目ではないか」という情報を得ました。震災当時の新聞には、亡くなった人のお名前と亡くなった場所(兵庫県警発表)が掲載されていたのです。

《取材日 2009年1月17日》

カメラマン

毎日新聞に問い合わせると、撮影は出版写真部の高橋勝視カメラマンの撮影とわかりました。

1月22日、羽田から関西国際空港まで飛行機に乗り、関空から神戸のポートアイランドまで船で行って、毎日新聞の支局がある元町まで歩いた。市内の取材には、中古の自転車を購入し使った。元町から長田区へも自転車で通った。震災から一週間、広い通りは車も通れるようになっていたが、毎日新聞のカメラマンはみな自転車で移動していた。

震災5日後ぐらいに神戸に入った時はただただ驚いた。表紙の写真を撮ったのはそれから更に5日後で、倒れた家が片づけられ、見えなかった道路も見えてきていた。街は復興に向けどんどん動いていた。なので、片付けをしている人たちに主にカメラを向けていた。

若松町10丁目は、JR新長田駅とJR鷹取駅の線路の南側、丁度まんなかぐらいで、この辺りは全部焼け落ちていた。
 しかし、若松町9丁目と大橋町10丁目は焼けていなかった。表紙写真の背景の家が焼けずに残っていることから、後ろに見えているのは大橋町10丁目ではないだろうか。

1月26日の撮影時は、鷹取商店街の瓦礫がどけられていて歩けた。そして、商店街を歩きながら祈っている人たちを見かけて、北西からこの人たちを撮ったと思う。なので、おそらく、北西、商店街の方から(南東側の)若松町10丁目の方を撮っているのではないだろうか。

祈っている所にたまたま通りかかって撮影した。その人たちに美紀さんが亡くなったことを聞いた。美紀さん以外に誰が(家族が)亡くなったのかは聞いていない。それ以上のことは聞いていないので、連絡先も分からない。この人たちがクラスメートかどうかも分からないし、もしかしたら中学校の同級生かもしれない。表紙の写真では、美紀さんの冥福を祈っていたが、他にも亡くなった方がいて(彼らは街の中を)回っていたのかもしれない。

別の日にも、女子高生が一人で手を合わせている場面を見ていたので、そんなに感傷的にはならなかった。おそらく神戸じゅうでそういう場面があったと思う。

震災発生から10日ぐらい経つと、焼け落ちた建物が目に付くが、ここで人が死んだのかもしれないという考えに及ばない。しかし、このとき、冥福を祈っている姿を見て、人の死を現実のものとして感じられた。

《取材日 2009年1月26日、横浜緑ヶ丘高校が8月2日に写真取材》

取材した人

ひたすら街を歩いて取材

若松町を、歩いて取材しました。カトリックたかとり教会の資料室、まちづくり協議会の関係者に、基本的な取材をしました。このあたりが大規模な火災に見舞われて、多くの方が亡くなったことを知りました。
 地元の市民の方、商店や、学校関係者にも取材。さらに過去に新聞の情報も総合すると、上垣美紀さん宅は、父、母、祖母、3姉妹の6人家族だったこと。母・政代さん(43)、次女美紀さん(17)、三女由佳さん(15)の3人が亡くなったこと。美紀さんは、市立の工業高校の自動車関連の学科に通っていたこともわかりました。そして、長女(美紀さんのお姉さん)の山下規子さんが、結婚されて大阪府内にお住まいで、連絡先もわかったのです。

《取材日 2009年3月18日ほか》

取材した人
【写真】震災から15年たった。整然とした街並みの若松町10丁目周辺。(2010年1月撮影)

美紀ちゃん美紀ちゃんって呼んだけど、返事はなかった…

お姉さんの山下規子さんさんは、電話での取材なら、と応じてくださいました。妹の美紀さんへの思いを話してくださいました。

美紀は、タンスが落ちてきて…、圧死だったと思う。
お母さんがずっと「美紀ちゃん美紀ちゃん」って呼んでたけど、返事はなかった。その母も、火事で亡くなった。
一番下の妹(由佳さん)は「規子姉ちゃん、助けてー」って何度も言っていた。「助けたるから待っときよー」と言ったら、「うん」と返事した。約束を守れず、いまでもその声が忘れられない。
でも、美紀は最後まで声してなかったから、分からへん。

 私(規子さん)は、震災が起こる前の日に会ってないねん。多分帰りが遅かったんか、何かで会ってないから前後のことが覚えてない。
 私らは、地震より火のほうが怖い。私は、押し潰されてないけど…寝てたところや二階のところが落ちて一階が「ぐっちゃぐっちゃ」やって…。火が来る前、近所のお兄ちゃんが二階で寝てた美紀を助けようとしたけど声もしてなっかたし、その時は、もう亡くなっていたんじゃないかな。

(美紀さんには)彼氏もいて、その彼氏は高校1年の時からずっとつきあっていて、その子が最初に駆け付けて。「美紀はみつからへんねん。あの火の中やねん」っていって泣いていたら、その子が、絶対にどっかに逃げるかもしれんって、必死に探してくれた。

彼氏以外にも、何人か男の子が来て。その後に皆が来てくれて、骨を拾ってくれた。
1月17日に震災があったけど、19日まで火は消えなかった。地面なんか触ったら熱いくらいで、皆近寄ったらあかんで、みたいな感じだった。
1月19日は父の誕生日で…。跡地に水をかけたら、「シュー」と言って蒸気が立ちあがった。震災が起こる前の事を思い出して、美紀の友達とかで骨を探した。

由佳の骨は見つかったけど…。骨は細かって、お母さんの骨は大人の骨だったから太かった。残りの骨を手で掻き分けて、探せるだけ探して骨をビニール袋に入れた。美紀の骨もそこで見つけたんだと思う。警察に、死亡届を出しに行った。

どこに何があるのかも分からなくて掘って、掘って、掘りまくって、探しまくった。

美紀には、たくさんお友達がいて、男女区別なしにいっぱい友達がいて幸せやと思った。
普通の友達ではなく、ほんまに真剣に考えてくれる友達で…。男の子も女の子も関係なしに。
美紀のクラスには、男の子が40人いて、女の子は2人だけ。作業服とか着て、作業の機械とかを使うのも男の子と一緒やし。友達はたくさんいて、この子すごいなぁと思った。

美紀は友達からは、「めっちゃいいやつやでぇ」って聞いた。美紀のお友達から私(規子さん)は、「お姉ちゃん」と呼ばれていた。

美紀が亡くなった後に、クラスのみんなと先生が、「美紀へ」って言う冊子を作ってくれたり、美紀が写っている写真を全部集めて、クリアファイルにしてくれた。
一人の女の子が、机においてある花の水をいつもかえてくれた。その花瓶は、高校3年生まであって。それまでずっと(水を)かえ続けてくれた。

花瓶の周りには、美紀が好きなお菓子とかチョコレートがあって、みんなが忘れてなくて…。美紀の為にいろんなことをしてくれていたんです。

報道写真

めちゃくちゃいい子、明るい子だった

 お姉さんの情報などから、美紀さんの担任の先生は、瀧川勝三さん(46)とわかりました。現在も神戸市立高校の教諭をされています。
 お手紙を出して許しが出たので、お会いして話をうかがうことができました。
 震災の混乱で、生徒全員の安否を知るのに一週間ほどかかりました。交通手段がないのでたくさんある避難所や仮設所を歩いてまわったということです。美紀さんが亡くなったことは、地震発生から1日か2日くらい後に知りました。


Q.写真に写っている方々は誰ですか?
A.クラスメイト。写真に写っている以外に、(現場には)もっと生徒がいた。

Q.当時、写真に写っている場に瀧川先生はおられましたか?
A.(写真フレームの外、右側に)いた。しかし写真を撮られていることには全く気づかなかった。後日、雑誌に写真が載っていることを聞かされて(撮影されたことを)初めて知った。

Q.美紀さん達が何年生の時の事ですか?
A.高二の最後のほう。修学旅行の直前だった。

Q.美紀さんは学校でどんな人でしたか?
A.めちゃくちゃ良い子で明るい子だった。

写っている生徒にも連絡をとってみるとおっしゃって、先生からの連絡を待ちました。
《取材日 2010年2月25日》

取材風景
【写真】現在の撮影現場付近。新しい住宅が立ち並ぶ。(神戸市長田区若松町10丁目で、2010年1月撮影)

先生が美紀さんの死を告げた。クラスは静まり返った

 瀧川先生の紹介で、美紀さんのクラスメートで、写真前列の左から3番目に写っている矢口雄介さん(32)に、インタビューすることができました。

 矢口さんは、当時、高校2年生で、長田区上池田にあった自宅の2階にある自分の部屋で寝ていらっしゃいました。激しい揺れが起きた時、布団にくるまり身を守ったそうです。
 「縦揺れが凄く恐かった。揺れているときは、布団をかぶってワァーと叫んでいた」。地震の影響で自立式のハンガーたてが倒れてきて、自分の上にのしかかり、しばらく身動きがとれなくなりました。「(玄関の)ドアが開かなかったんで蹴破って外に出た」とおっしゃっていました。
 外に出た瞬間、揺れの影響かは分からないが、頭が痛くなり、少しのあいだしゃがみこんでしまったといいます。「ガス臭かった。火の手はあがっていなかったが、地面のひび割れが多少みられた程度だった」。

 学校には数日後に登校したと記憶しています。「高校生だったから、明日も学校休みちゃうかなぁ。みたいなことばっかり思っていましたねぇ」と打ち明けてくださいました。
 美紀さんが亡くなったのを知ったのは、学校に初めて登校したときでした。瀧川先生の口から聞く前に、美紀さんの家の近くに住んでいたクラスメートから聞きました。その後、改めて瀧川先生のほうから聞かされます。
「クラスはシーン…と静まりかえっていましたね」と矢口さん。
 矢口さんと美紀さんとは席も近く班も一緒だったので、仲の良いほうでした。美紀さんは、可愛らしい人で、明るく、誰とでも話す元気な人でした。

 最初に美紀さんの自宅跡に行ったのは、学校に(最初に)登校した後、仲の良いクラスメイト、そして瀧川先生とで向かった。その時に撮影されたのが、この写真です。
 美紀さんのご家族は避難所へ避難されていて、会うことが出来たのは美紀さんのお父さんだけ。「娘さん(2人)と奥さんを亡くしていた為か、もう気力が全くなくて、ほとんど喋らなかった」といいます。
 その時以来、美紀さんのご家族とは会っていません。
 現在は屋外広告士の仕事をしている矢口さん。当時のクラスメイトとは2人ぐらいしか連絡はつかないとのこと。美紀さんのお墓参りも卒業したあと、友人と何年かは行っていました。
 震災の日が来るたび、思うことはありますか?と、問いかけたところ、「あぁ、今年も墓参り行ってへんなぁ」と悲しそうにつぶやかれました。

 話していくうちに、鮮明に思い出してきたという矢口さん。
「一番わかっていってほしいのは、美紀さんのお父さんの気持ちですね。父親になった今だからこそ思うのが、家族や娘を失う苦しさですね」と教えてくださいました。
《取材日 2010年4月28日》