報道写真

【写真】崩れた神戸市立西市民病院。ガレキの中で必死に行われる救出活動=1995年1月17日 午後5時
(C)読売新聞社

チーム写真

危機の中で医療活動はどう行われたか

災害の時、頼りになるはずの病院がなぜこのような姿になってしまったのか。このような状況の中で、医療関係者はどのように活動したのか。知りたいと思いました。【神戸学院大学チーム】

カメラマン

視界から現場はみだしていた

読売新聞社の関係者に聞いたところ、撮影したのは当時大阪本社写真部に所属していた高本雅夫さん(現・大阪本社記事審査部<写真担当>)と判明。大阪本社でお話を伺いました。

<夜行バスの中で地震にあう>

夜行バスに乗って、(私用で)東京から帰ってくる途中地震に遭った。バスの中にいて、うとうとしていたので、直接的な揺れは知らない。普通、バスのテレビは、到着するまでつけないものだが、起きると、ニュース速報がついていた。

 バスから降りると、雰囲気が違った。電気は消えていて、地割れもあり、水が噴き出していた。ただならぬ地震だったんだなと思った。会社に行かなければノと思った。

 読売新聞大阪本社に出社した。神戸で大きな地震があったらしい、としか分からない。
 7時頃、衛星中継車で(神戸へ向け)出発した。衛星中継車とは、パラポラアンテナが付いて、写真画像が通信衛星経由で電送できる自動車。簡単な写真現像機械なども備えつけている。

 高速道路は使えなかったので、2号線を通って神戸へ向かう。武庫川をこえた瞬間、世界が違った。西宮のバスの宙づりや、阪神高速の倒壊も見た。「なんじゃこらー」という感じ。このとき初めて、これはものすごい地震だということを実感した。

 神戸にたどり着いたのは、午後1時か2時くらい。神戸支局で、「西市民病院に患者や看護師50名ほどが閉じ込められている」という情報を得て、現場に向かう。
 情報収集は大きめの無線機を使った。3時くらいまでに西市民病院に到着した。


(中の人が助かるまでは)そこを離れるわけにはいかへんかった。閉じ込められているという情報で取材に行ったので、助かるものという前提で取材している。

<西市民病院の本館5階が崩落していた>

西市民病院の5階が層崩壊していた。
この写真が撮られた午後5時ごろに、レスキューなどが通路を確保して、ようやく助け出され始めた。
 フロアの柱がS字状に座屈。天井は手が届くぐらいまで下がってきている。そんな中で、穴に潜り込んでレスキューの人たちが、閉じ込められているところまでルート確保しようとしているが、なかなか進まない。

病院のビルはL字型になっていて、同じ5階の角を曲がったところから撮影した。

窓ガラスはほとんど割れ、燃え上っている長田の町が見えた。自分は、いつ救出されるかもわからない人たちを、ここでじっと待っていていいのか、というジレンマもあったが、手分けして取材しているから、仲間を信じ、自分のミッションを果たすまで、現場から離れなかった。

暗いへしゃげたフロアで待ってた時間の方が長かった。ミシミシっと余震のたびにドキッとする。「ここにいて大丈夫なんか」と思う。確証はないが、余震のたびに、さっきより天井低なったんちゃうか、そんな気がした。
 カメラを持っていなかったら、きっといられなかった思う。
 破壊のなかったフロアでは、救急活動行われてたんかなぁ?

 写真に写っている人の連絡先などは、当時は、メモしていたはずだが、あとのフォローができる状況でなかった。1か月は馬車馬のように走り回っていたので。

<家族は心配だったが…>

家に帰らず、東京帰りで、そのまま直接現地入りしたから、尼崎に住んでいた家族や家は心配だった。直接話ができたのは、日付変わって18日。神戸支局から、夜中に電話がようやく通じた。

 当時、カメラはフィルム式。ということは、写真を撮っても、現像が必要。
 衛星中継車に現像する機械はあるが、時間がかかる。現像に20〜30分、送るのにカラーで20分。1枚送るのに小一時間かかった。
私が乗っていた衛星中継車には現像する機械があったが、撮っても会社に送れないカメラマンがたくさんいた。
 そこで活躍したのが、フィルムを集めて回るオートバイ。メッセンジャーがいて、無線で打ち合わせ、決まった時間・場所で受け渡しをする。そして、神戸支局か大阪本社に運んで処理する。
 第三者が処理するため、わかりやすく説明書きを加えたりした。
 新聞を配達するのも大変だった。締め切りも早いし、道路も大渋滞。うちの社も船やヘリを使って配達した。


<自分の視界から、現場がはみ出した>

 神戸に向かう途中でも、カメラを置いて救出を手伝ったことも。カメラマンとしては、ダメかもしれない。そこに居合わせた人間はずっと背負うジレンマやと思う。
 その場に行かないとわからない。同じことが今後起きても、その時と同じことをするかもわからない。助けるか、撮るか…。

(それまでの)現場は、視界におさまるものだった。しかし、大震災の時は、異例で、360。すべてが現場。自分の視界から、現場がはみ出したのはあのときだけだった。
 36枚撮りのフィルムを40本ぐらい持っていたが、到底足りないと思った。
かわいそうだから、シャッターが押せないというのは背負った宿命のようなもの。でも、多くの人に伝える、というのがマスコミの仕事。
自分は新聞社のカメラマンである限り、伝えなければならない。撮らなければこの思いは伝わらない。撮っても、撮っても、終わりはない。


<メディアと救助隊との葛藤も>

西市民病院のフロアは薄暗かった。
レスキューとのこんなやりとりもあった。消防(確か京都市消防だったような)の人が、テレビのクルーに「ライトを貸してくれ」と頼んだ。
テレビの人も、自分たちの仕事の機材。ライトの電池も消耗していたので、なかなか貸すわけにはいかない。
みな葛藤はあった。
救急隊の人たちは必死に救出活動をしている。その横で、私たちも見守っている。同じ空間を共有しているという感じがあった。狭い空間に何社かのカメラマンがいたが、救出作業の動線は妨げないという共通認識はあった。ただ、傍観者としてそこにいるというのとは、少し違う風に自分は感じた。

《取材日 2009年4月16日》

カメラマンの証言
病院関係者の証言
消防関係者の証言
入院患者の証言